駅を中心に広がった複数の商店街をダラダラと歩いていると、観劇で帯びた重たい熱は徐々に冷めて、傘を持つのも少し億劫になった。どこか店に入ろうかと提案したいけれど、カレー屋ぐらいしか知らないのが、恥ずかしい。わかりやすくオシャレそうなカフェに入るのもいいけれど、この街の飲食店は、どの店も入り口が狭い気がして、OPENという文字がかえって排他的な空気を醸し出している気がした。
いい店を知っているわけでもないし、居酒屋に行くには早すぎる。どうしたものかと考えていたら、いつの間にか本多劇場の近くまで戻ってきていた。下北沢は不思議な街で、迷ったとおもった瞬間に、元の場所まで戻ってきていることがよくある。
「もうサイゼで飲んじゃうってのは、どう?」
ライブハウスCLUB Queやカラオケ館がある交差点で、彼女はサイゼリヤの看板を指差した。
「え、サイゼって、飲めんの?」「知らない? すっごく安く飲めるの。優秀なの」こちらの同意を取ることなく、彼女は水たまりを避けながら、テナントビルへと足を進めた。
傘を畳んだのは、まだ十七時のことだった。
店内は酷く閑散としていた。普段ならドリンクバーひとつでいつまでも居座ろうとする高校生や大学生が溢れているのに、奥に部活帰りの男子高校生を確認できたぐらいで、あとは新聞を読みふける老人や、買い物帰りとおもわれる三人の女性しかいなかった。入り口近くの天井の照明がチカチカと点滅していて、物寂しさにさらなる追い討ちをかけていた。
ブリーチして傷みきった髪をそのまま伸ばしたような風貌の男性スタッフが、気怠そうに出てくる。一度もこちらの顔を見ないまま「お好きな席どうぞ」と言うと、そのままフロアの奥に消えて行った。
「なんか、シモキタ感がすごいね」彼女が小さく笑いながら言うと、それもそうだとおもって、なんだか愉快に感じてきた。隅のテーブルに着くと、端が折れ曲がっているメニューを何度か開いて、白ワインのマグナムボトルを頼む。
まだ日も暮れぬうちから、僕らは乾杯を始めた。
「とりあえず」と言って頼んだミラノ風ドリアやエスカルゴのオーブン焼き、小エビのサラダを二人ですくいながら、互いのグラスになみなみとワインを注ぐ。どんな男が好きで、どんな女と付き合ってきたのか。どんな映画が好きで、どんなCDを最初に買ったのか。お互いの「これまで」を、出会った夜より詳細に明かし合った。二時間が経つ頃には彼女の二重のまぶたはさらに重たくなっていて、気怠さを通り越して、ふてぶてしさすら感じさせつつあった。その態度もまた、僕という存在が彼女に許されている証拠のようにおもえた。
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