本多劇場の前を通過することは何度かあっても、中に入るのは初めてだった。
入り口前でチケットの確認を済ませると、天井がやや低い、少し圧迫感を覚えるロビーへと通される。開演初日と彼女が言っていたのもあり、開演前のロビーフロアはとても混雑していた。物販コーナーの近くでは、パンフレットとキャストのブロマイドを購入しようとする観客で、大きな賑わいを見せている。酸素が外気の半分に設定されたように薄く感じて、どうにも息苦しい。
彼女は立ち止まることなく、客席へ続く分厚い扉に手をかける。僕は場慣れしていないことを気付かれぬよう、できるだけ余裕を持ったフリをして、ドアマンのように後ろから扉を引いた。
外観から想像していたより、よっぽど大きな劇場だった。二階席まではないものの、後方から見れば、演者の表情まで確認するには少し難しいほど、奥行きと高さがある。客席はすでに半分ほど埋まっていて、みんなこの場に慣れた、文化的な顔つきをしていた。
僕らに用意された席は、真ん中より少し後方、端っこの二つ。彼女にどちらに座りたいか尋ねられ、「好きな方を」と答えると、僕の右隣に座った。座るなら右側を選ぶ人なのだと、脳に刻み込んだ。
「結構大きい劇場なんだね」
「今回のやつ、演出家が有名な人なの。普段はもっと大きな会場ばっかりだから、このくらいのハコは、余裕で埋まりそう」ワンピースがシワにならないように、手で体のラインをなぞりながら、彼女は続ける。
「小さい劇場だと、本当に狭いんだ。中目黒のウッディシアターとか、行ったことある?」
「行った気がするけど、どんなんだったっけ?」
もちろん行ったことがない僕は、小さな嘘を着々と積み重ねる。
「堅い木の長椅子に、薄い座布団が並んでるだけ。足組むこともできないまま、二時間ぎゅうぎゅう詰めのやつ」
「あー、行ったこと、あったかな」
「それでもまだ大きい方なんだけど、でも小さいハコも、楽しいよ。舞台って、映画よりはライブに近いとおもっていて、ハコが小さいとそのぶん、演者とお客さんの熱量が一体になっていく感じがするのね」
「おおー、なるほど?」
「私は、その感じも好き」
好き、という言葉を愛おしそうに使う人だった。そんな人の好きな人になりたいとおもう僕がいた。シェイクスピアの四大悲劇すらロクに答えられない僕の存在は、ヴィレッジヴァンガードにいちいち憧れを抱かないであろう彼女の目に、どのように映っているのだろう。開演を告げるブザーが、僕らの会話を遮るように鳴った。
*
本多劇場を出ると、梅雨の予行演習のような雨が降り始めていた。街はここのところ外れがちな天気予報に辟易としながらも、慣れた手つきで店先に、雨除けのビニールカバーを垂らしていく。
重たく曇った空を二人で眺める。傘を買ってちょっと歩こうかと提案したのは僕からで、彼女はそれに快く同意してくれた。コンビニのビニール傘は在庫をかなり減らしていて、この雨が少し前から降っていたことを物語っている。
残り少なくなったビニール傘を二つ買ってコンビニを出ると、キャップから覗く大きな瞳に向かって、「どうでした?」と劇の感想を尋ねる。僕の感想が彼女の意にそぐわなかったら申し訳なくて、先に聞くことだけは決めていた。
劇は、部分部分で楽しめる要素は確かにあったものの、没入するには至らず、モヤモヤとした気持ちを残して静かに終わった。二度のカーテンコールで客席に姿を見せた演者たちは、遠目から見ても清々しい顔をしていて、それが尚更、違和感に繋がった。
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