明け方の若者たち

何者でもないうちだけだよ、何してもイイ時期なんて」

「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」その16文字から始まった、沼のような5年間ーー。
6月11日に発売するライター・カツセマサヒコさんのデビュー小説『明け方の若者たち』。安達祐実さんや村山由佳さん、尾崎世界観さんなども推薦する注目の作品より、1章・2章を8日間連続で特別公開します。(全8回/7回目)

本多劇場の前を通過することは何度かあっても、中に入るのは初めてだった。

入り口前でチケットの確認を済ませると、天井がやや低い、少し圧迫感を覚えるロビーへと通される。開演初日と彼女が言っていたのもあり、開演前のロビーフロアはとても混雑していた。物販コーナーの近くでは、パンフレットとキャストのブロマイドを購入しようとする観客で、大きな賑わいを見せている。酸素が外気の半分に設定されたように薄く感じて、どうにも息苦しい。

彼女は立ち止まることなく、客席へ続く分厚い扉に手をかける。僕は場慣れしていないことを気付かれぬよう、できるだけ余裕を持ったフリをして、ドアマンのように後ろから扉を引いた。

外観から想像していたより、よっぽど大きな劇場だった。二階席まではないものの、後方から見れば、演者の表情まで確認するには少し難しいほど、奥行きと高さがある。客席はすでに半分ほど埋まっていて、みんなこの場に慣れた、文化的な顔つきをしていた。

僕らに用意された席は、真ん中より少し後方、端っこの二つ。彼女にどちらに座りたいか尋ねられ、「好きな方を」と答えると、僕の右隣に座った。座るなら右側を選ぶ人なのだと、脳に刻み込んだ。

「結構大きい劇場なんだね」

「今回のやつ、演出家が有名な人なの。普段はもっと大きな会場ばっかりだから、このくらいのハコは、余裕で埋まりそう」ワンピースがシワにならないように、手で体のラインをなぞりながら、彼女は続ける。

「小さい劇場だと、本当に狭いんだ。中目黒のウッディシアターとか、行ったことある?」

「行った気がするけど、どんなんだったっけ?」

もちろん行ったことがない僕は、小さな嘘を着々と積み重ねる。

「堅い木の長椅子に、薄い座布団が並んでるだけ。足組むこともできないまま、二時間ぎゅうぎゅう詰めのやつ」

「あー、行ったこと、あったかな」

「それでもまだ大きい方なんだけど、でも小さいハコも、楽しいよ。舞台って、映画よりはライブに近いとおもっていて、ハコが小さいとそのぶん、演者とお客さんの熱量が一体になっていく感じがするのね」

「おおー、なるほど?」

「私は、その感じも好き」

好き、という言葉を愛おしそうに使う人だった。そんな人の好きな人になりたいとおもう僕がいた。シェイクスピアの四大悲劇すらロクに答えられない僕の存在は、ヴィレッジヴァンガードにいちいち憧れを抱かないであろう彼女の目に、どのように映っているのだろう。開演を告げるブザーが、僕らの会話を遮るように鳴った。



本多劇場を出ると、梅雨の予行演習のような雨が降り始めていた。街はここのところ外れがちな天気予報に辟易としながらも、慣れた手つきで店先に、雨除けのビニールカバーを垂らしていく。

重たく曇った空を二人で眺める。傘を買ってちょっと歩こうかと提案したのは僕からで、彼女はそれに快く同意してくれた。コンビニのビニール傘は在庫をかなり減らしていて、この雨が少し前から降っていたことを物語っている。

残り少なくなったビニール傘を二つ買ってコンビニを出ると、キャップから覗く大きな瞳に向かって、「どうでした?」と劇の感想を尋ねる。僕の感想が彼女の意にそぐわなかったら申し訳なくて、先に聞くことだけは決めていた。

劇は、部分部分で楽しめる要素は確かにあったものの、没入するには至らず、モヤモヤとした気持ちを残して静かに終わった。二度のカーテンコールで客席に姿を見せた演者たちは、遠目から見ても清々しい顔をしていて、それが尚更、違和感に繋がった。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

安達祐実、村山由佳、尾崎世界観、紗倉まな、今泉力哉、長谷川朗、推薦! 近くて遠い2010年代を青々しく描いた、人気ウェブライターのデビュー小説。

明け方の若者たち

カツセ マサヒコ
幻冬舎
2020-06-11

この連載について

初回を読む
明け方の若者たち

カツセマサヒコ

「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」その16文字から始まった、沼のような5年間ーー。 2020年6月11日に発売する人気ウェブライター・カツセマサヒコさんのデビュー作『明け方の若者たち』。安達祐実さんや村山由佳さん、尾崎世界観...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

katsuse_m 第七話 |明け方の若者たち https://t.co/TnlN0UyeQN 5ヶ月前 replyretweetfavorite