子育てとは、「親としての私」と「ひとりの人間としての私」と、ふたつの軸の間でバランスを取りながら生きていくことだ。
子どもが小さいうちは、「親としての私」の軸に比重が傾きがちになる。
「ひとりの人間としての私」でいることは一旦後まわしにせざるを得ない。
長女(7)のサンタさんへの手紙。すみっコぐらしのパソコンをねだっている。
だが、子どもはいつか手を離れる。
そのときには、また「ひとりの人間としての私」に戻るだろう。 そちらの方の「私」をあまりにないがしろにしていれば、戻る場所がなくなってしまうのではないか。 親でありつつ、ひとりの人間としての方にも、ときには軸足を置いてみることが必要だ。
そこで今回は、親としての軸と、ひとりの人間としての軸のどちらにも関わってくる、仕事のあり方について考えたい。
又吉みたいな小説?
私はいま京都に住み、ふたりの子どもたちを育てながら、フリーランスとしてさまざまな文章を書く仕事を自宅でしている。
20年近く続けているのが、小説を書く仕事。
文芸誌からの依頼を受けると、編集者さんと打ち合わせをして内容やプロットを詰めてから、締め切りを決めて書き始める。
私が書いているのは純文学というジャンルで、ふだん小説を読まない人には説明しづらいマイナーなものだ。
聞かれると面倒くさいので、「芥川賞取ってる人が書いてるのが純文学ですね。あの、又吉わかります? 又吉みたいなの書いてます」と説明することにしていて、これがいちばん伝わりやすい。
実際は又吉直樹さんの小説とはだいぶ違うものを書いている。
400字換算(なぜか文芸の世界では文字数でなく原稿用紙換算の枚数で長さを測る。もちろん原稿はWordで書いている)で100枚ほどの小説を書くのに、私の場合は3ヶ月ほどかかってしまう。
そこから改稿を何度も重ねる場合もあり、そうなると掲載にいたるまで半年以上かかることもある。
小説の執筆は長丁場になるため、並行してウェブ上でエッセイやコラムの連載もしている。
1回ぶん3~4000字を1~2日で書きあげて、編集者さんとやりとりをして少し改稿してから公開、という流れなので、1本あたりの分量は少ないが、小説よりは遥かに短いサイクルで仕事を完結できる。
やりたいことだけをやって生計を立てる
さらに、専門学校の文芸創作科で小説の書き方を教える授業を、隔週で行っている。
友人の作家さんが教えている大学に呼んでもらって単発の授業をすることも年に何回かある。
文芸賞の選考に携わり、作家志望の方の書いた小説をたくさん読んで選評を書いたり評価をつけたりもしている。
大学の講義や文芸賞の授賞式では、女装姿で話をすることも。
書くことについて喋りすぎると、自分のなかで枠組みが固まってしまって、自由に書くことができなくなるよ、と先輩の作家さんにアドバイスをされたことがあったが、いまのところそのようなデメリットは感じていない。
他には、企業から販売促進のサポートを依頼されて、ウェブページやSNSの記事を執筆することもある。
とにかく、文章を書いたり、それにまつわることを喋ったりすることだけで生活している。
全く裕福ではなく、むしろギリギリの生活だが、やりたいことだけをやって生計を立てている。
子育てと仕事を両立させるために試行錯誤を繰り返した結果、辿り着いたのが、やりたいことだけをやる、というこの生活だった。
書くことと喋ること
27歳のときに「中国の拷問」という小説で「早稲田文学」誌の新人賞を受賞して小説家としてデビューした私は、「小説を書く時間を確保できる仕事をしよう」と考えた。
小説を書くだけでは食べていけないだろうけど、それでも書くことをやめたくはなかったから。
そこで、学習塾の講師の仕事をすることにした。
小5から中3まで、各学年1クラスずつ受け持って受験指導をするのだが、勤務時間が16時半から21時半までと短かったので、昼間に小説を書く時間をしっかり確保できた。
一方で、夏と冬と春の講習の時期と受験シーズンは朝から夜までびっしり授業が入り、家に帰ってからも翌日の準備をしなければならず、お金は稼げたが体力的にも精神的にもキツいものがあった。
そこで、社会人向けに国家資格の受験勉強を教える講師の仕事に転職した。
勤務時間は増えたが、人前で大声をだして喋る仕事は私に向いていたらしく、ストレス発散にもなるし、通勤電車のなかでスマホのWordアプリで執筆していると、家で机に向かっているときより捗る場合もあった。
教える仕事は楽しく、高校生から70代の方まで、延べ3000人ほどの受講生と関わったことで学べることも多かった。
この会社では出版事業も行っていて、私はゴーストライターとして7冊の実用書を執筆した。
子どもが生まれた後にベンチャー企業に転職
転職続きで困っていた頃の仙田学。手をケガしていた。
結婚して子どもが生まれて、しばらく経った頃に転職した。
以前から興味のあった、SEOライティングの仕事をすることにした。
SEOライティングとは、Googleなどの検索エンジンで検索されたときに、上位に表示される記事を書くことだ。
経験はなかったが、それまでの執筆経験を話すと採用された。
その会社は渋谷にオフィスを構えるベンチャー企業で、社長も社員もほぼ全員20代。
40代は私だけだった。
上司は24歳の女性だったが、すでに数年の経験のある方だったので、頭を下げて教えてもらった。
検索上位にくる記事を書くときには、純文学の小説を書くときとは真逆の頭の使い方をしなければならないが、新鮮で面白かった。
スタッフも優秀で頭の回転が速い方ばかりで、たくさん刺激を受けたし、40代の自分より遥かにお兄さんお姉さんに思えた。
オフィスの近くに青山学院大学があり、お昼はよくそこの学食に400円くらいの定食を食べにいったのもいい思い出だ。
通勤時間はさらに長くなったが、相変わらず電車のなかで小説を書き続けていた。
ウェブ上でエッセイの連載を始めたのもこの頃だ。
起業を考えたが失敗
京都に引っ越して子育てをすると決めたのは、とつぜんだった。
渋谷のオフィスには出社できなくなってしまったことを、私は23歳のマネジャーに電話で告げ、平謝りした。
そして、京都からリモートで仕事をさせてもらえないかと交渉した。
結果的に特例として認めていただき、私は業務委託契約を交わして在宅ワークを始めることにした。
来る日も来る日も家で文章を書きまくるうちに収入が確保され、育児や家事との両立もできるようになった。
孤独ではあったが、どうにか生活の基盤ができていった。
ところが1年ほど経ち、会社が業態転換をするとのことで、契約が終了してしまった。
またどこかに勤めることも考えたが、いったん在宅ワークに慣れてしまうと、外に働きに行きながら育児や家事と両立させられる自信がなかった。
そこで、起業することにした。
2年間で百数十本の記事を書いてきた経験を活かして、企業の販売促進をサポートする事業を始めようと考えたのだ。
起業塾のメルマガをいくつか購読し、ピンとくる講師の方の動画をたくさん見ていたところ、無料でzoomカウンセリングを受けられることがわかり、申しこんだ。
カリスマ講師のお弟子さんの方と1時間ほど話し、その起業塾に入るメリットをいろいろ聞いてやる気になったところで、授業料を聞いて目玉が飛びでそうになった。
1年間で200万円ぶんを一括で前払い……。
すぐに月商3桁はいくから取り返せますよ、と言われたがお断りした。
もっと地道な道を私は探すことにした。
京都市には起業したい人を支援してくれる機関があったし、女性起業家にインタビューをする連載もしていたので、いろんな人に会って起業する方法を聞きまくった。
そして、友人に紹介してもらったITエンジニアの方と一緒に、企業の販売促進のサポートをする会社を創ることにした。
具体的な事業内容は、ホームページを改修して検索順位を上げたり、SNSなどと連携させて販路を拡大させていくサポートをするというもの。
私は主にライティングと営業を、エンジニアさんはデザインやコーディングまわりを担当する。
数打ちゃ当たる方式で、たくさん営業をかけて提案をしていけば道が拓ける、と考えた私は、さまざまな展示会に参加して、中小企業の社長と片っ端から名刺交換をしてはメールを送りまくった。
ところが、これが苦痛きわまりなかった。
今日は1日電話営業をする日にしよう、と電話番号のリストを前にしても、スマホを手に取ることができない。
せっかく受注した仕事も、やっていて全く楽しくない。
おそらく私は誰かをサポートしたり、営業をかけたりということに向いていなかったのだろう。
2人以上集まれば組織になる
さらに、エンジニアさんとケンカをした。
行き違いが重なって、お互いに不満が募っていたのだろう、業務連絡を電話でしている途中に激しい言い争いになった。
エ「どうしてこう書いたのか説明してください」
私「……」
エ「黙らないでください」
私「考えてるだけですよ。次から黙るときには、『5秒後に黙ります、1、2……』って言ってから黙りますね」
エ「小学生みたいなこと言わないでください!」
というやりとりをしたのは覚えている。
この一件いらい、私はエンジニアさんと絶交状態になり、事業は潰れた。
会社勤めをしていると、いや、ある組織に属すると、多かれ少なかれ不合理なことが起こるものだ。
組織に属するとは、そうした不合理を受け容れ、なんとか折りあいをつけていくということ。
ところが私は、不合理に直面すると我慢できなくなってしまうのだ。
仕事を転々としてきたのはそのためだろう。
たった2人でも、ひとが集まれば組織になり、組織になった瞬間に何か不合理なことが起こってしまい、私はそれに折り合いをつけることができない。
そのことがはっきりわかった。
さらに、寝ても覚めてもそのことを考え続けるくらいの情熱がないと起業などとてもできないということも。