サクちゃんへ
こんにちは。
緊急事態宣言が、徐々に解除されつつありますね。
わたしたちが住んでいる東京・京都はまだ解除されていないけど、そろそろなのでしょうか。
今年は不穏に静かだった春。もうすぐ夏がやってきますね。
ー・-・-
サクちゃんの前回の日記で、ぐっと来た言葉がありました。
「人生はガマン大会ではなくて、自分をよろこばせる大会なんだ」
ほんとにその通りだなと思って、忘れないように手帳に書いておきました。
サクちゃんは、
「いつもすぐに諦めてばかりで、たぶんその代わりに『しょうがないから』とガマンをするクセがあった」
と書いていたけれど、わたしの場合は「がんばらないと」とガマンするクセがあったように思います。
欲しいものを手に入れるための「がんばる」はまだ健やかなのですが、わたしの不健全なところは、今の自分を否定して無理に「がんばる」をさせてしまうところです。
がんばって「やっと欲しいものを手に入れた!」という状態になっても、すぐ「でもまだできるはずだ」「あの人はもっとやっている」「もっとがんばらないと」と思ってしまう。
すでに持っているものよりも、まだ持っていないものに目が行ってしまうんですね。欲張りとか身の程知らずというよりは、止まるのが不安なんです。何かしていないとこわい。泳ぎ続けないと死んでしまうマグロみたいなものです。
現状足りないものを指摘し続け、「もっと」「まだ」と思うことで努力を促進させようとする。だからわたしは常に飢えていて、緊張していました。
体力のあった若いころは、それでもよかった。それで手に入れたものもいろいろあるし、その「がんばる」のおかげで今があるとも思っています。
でも、もうわたしは30代半ばとなり、体力の下り坂にさしかかっています(と言うか既に降りています)。
だんだんそんな自分がしんどくなってきて、「ああそうか、このやり方だけではもうすぐだめになってしまうんだな」と思いました。
これからも健やかに生きていきたいのであれば、そろそろ別のやり方を考えないといけない。
自分にとってどういうことが「幸せ」な状態なのか把握しないといけない。
そうでないと、常に飢餓感に苛まれたまま人生が終わってしまいます。
だから、「人生はガマン大会ではなくて、自分をよろこばせる大会なんだ」という言葉が、わたしの目指す方向を上手に言語化してくれたみたいで「そうそう!」となったのでした。
ガマン大会はもう卒業しなくっちゃな。
ー・-・-
でも、「幸せ」ってなんなんでしょう。
「自分をよろこばせる」ってどういうことなんでしょう。
わたしはいつもそこでひっかかってしまいます。
「自分を愛する」とか「自分を受け入れる」とか「自分の機嫌は自分でとる」とか、自分に足りないのはそういうことなのだろうと思いつつも、やり方がよくわからないのです。
そもそも、わたしはどういうときによろこび、どういうときに嬉しくなるんだろう。
自分の「幸せ」について腰を据えて考えたとき、それがよくわからなくなっている自分がいました。
その感覚には既視感があって、高校時代にダイエットをしたときのことを思い出しました。
わたしは10代のころにストイックに食事制限をしていたことがあったのですが、その結果自分がなにを「食べたい」と思いなにを「おいしい」と思うのか、よくわからなくなってしまったのです。
その頃の日記に「ずっと我慢していたら、内側の声が聴こえなくなった」と書いたのを覚えています。
わたしの中から聴こえていた声。
それをずっと無視していたから、聴こえなくなったんだと。
今はもうダイエットもしていないし、なにを「おいしい」と思うのかもちゃんとわかるけれど、純粋な食欲は前ほど感じなくなってしまいました。わたしはあのとき、大事ななにかの一部分をなくしてしまったのかもしれません。
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でね、わたしは「幸せ」って二種類あると思うんです。
「外側の声」と「内側の声」、それぞれに紐付いているふたつの「幸せ」。
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