職がなければ泣きついちゃえ! 芥川龍之介の転職術

何の仕事をするかと同様にいつの時代も悩み多き「どう働くか」問題。自身も経済記者のかたわら『人生で大切なことは泥酔に学んだ』など執筆活動で活躍する栗下直也さんが、偉人たちがどうやって働いてきたかにスポットを当てます。時代や自分に合わせた「働き方」のヒントが詰まった偉人列伝!!!

「しぬ、しぬ、しぬ、もう、だめだ、しぬ、しぬ」といった心境だったのだろうか。

作家の芥川龍之介は大正7年(1918年)11月2日、俳人・高浜虚子の息子の年尾に「うつるといけないから来ちゃだめです。熱があって咳が出て甚だ苦しい」と手紙を書いている。翌日は後に作家になる小島政二郎に「熱が高くつて甚よわった」と書き、5日にも小島に「退屈だから又これを書きます」と手紙を送っている。

「苦しくて退屈ならば寝てろよ。おまえは、かまってちゃんか」と突っ込みたくなるが、芥川がかまって欲しくなる気持ちもわかる。実は芥川はこの時、スペイン風邪で苦しんでいた。どうりで、はなはだ苦しいはずだ。おれ、死んじゃうかもと思っても不思議ではないし、実際、辞世の句まで用意しようとしていた。

足下の新型コロナウイルスの感染拡大で、注目をあつめたスペイン風邪は第一次世界大戦末期から戦後にかけて世界中で猛威を振るった。当時の世界人口の約2%に当たる2500万人が少なく見積もっても病死したといわれる。日本にも大正9年(1920年)までに3回襲来し、40万人前後が命を落とした。芥川は一命を取り留めたが、翌年の3月には実父をスペイン風邪で亡くしている。

芥川といえば、東西の古典に通じた才人として知られた。「蜘蛛の糸」「鼻」など、文学に全く興味がなくても強制的に教科書で読まされた作品はあるはずだ。 芥川は、元々は作家志望ではなかった。大学の教授になろうと考えていたが、同人誌仲間の久米正雄や菊池寛との交流から作家を志すようになる。芥川は東京帝国大英文科を二番で卒業するが、首席の人間が教授の腰巾着の点取り虫であったこともあり、アホらしくなり、研究職への熱が冷めていったとの見方もある。 早熟の天才と後にいわれるように、東京帝大時代に同人誌に書いた「鼻」が夏目漱石に激賞され、若くして注目される。とはいえ、その才能をもってしても、本人は意外に堅実で、「文士では食えない」と言われた時代背景もあり、大卒後には小説を書きながら、就職する道を選ぶ。

恩師の推挙もあり、大正5年(1916年)12月に海軍機関学校に英語教官の職を得る。この学校は軍人の養成機関である。軍隊と芥川は結びつかないが、実際、授業内容は独特だった。 戦争を「人殺し」と断罪し、「小説は人生に必要か」と意地悪い質問をする生徒には「戦争が人生にとって必要だと思うなら、これほど愚劣な人生観はない」とやり返す。その通りかもしれないが、日露戦争にも勝ち、海軍がイケイケどんどんの時にそれを士官候補生の前で言ってしまうとは。だが、これだけで驚いてはいけない。芥川は軍人が聞いたら激怒しかねない発言を連発する。

例えば、「君達は勝つことばかり教わって、敗けることを少しも教わらない。ここに日本軍の在り方の大きな欠陥がある」と戦意高揚に励む他の教官をよそ目に学生達に説いてしまう。一部の生徒や教官にはむちゃくちゃ不評で「敗戦教官」というあだ名までつけられる。 そして教官といえど皆が短髪なのにひとり長髪。けしからんと思った生徒に質問されても、「のびる髪を短かく刈り込むとは、その方がかえって不自然である」ともてあそぶ。 軍人批判も舌鋒鋭い。「君達は職業軍人にすぎない。それも片輪の人間で、少しもえらくない」とこきおろす。教え子のひとりは「陸軍の教官であったら、たちまち反戦主義者として、憲兵隊に拘引されていたに違いない」と述懐している。

芥川自身、小説家として一本立ちする自信はなかったものの、1年も経たずして、二足のわらじが嫌になる。恋人との結婚も視野に入れていた時期で、将来を模索し始める。 軍学校の初任給は60円だった。決して安くはないが、今とは比べようもないエリートだった帝大出としてはべらぼうに高くもない。当時、今の国家公務員上級職の初任給が70円、第一銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の初任給が40円、巡査の初任給が18円、国鉄(現JR)の入場券が10銭、うな重が40銭の時代だ。 いずれは筆一本で暮らしを立てたいと思い始めるも「名人気質」と当時から言われていただけに筆が速くない。「殆ど文章として、一気呵成に書き下ろすことはなかった」(久米正雄)「一作一作に打ち込むその刻苦は、なみたいていのものではなかった」(編集者の横関愛造)。書けても一日4、5枚だったという。

そこで、芥川は、大正7年(1918年)1月、これまで寄稿していてつながりがあった大阪毎日新聞(大毎)の薄田泣董学芸部長に「社友」にしてくれと泣きつく。新聞には大阪、東京の毎日新聞以外には書かないことを条件に月50円(原稿料は別)で契約を結ぶ。

とはいえ、芥川の不満はおさまらない。不満の根源は軍学校の仕事内容でも金銭でもなく、お役所式の勤務体系にあった。芥川が受け持つ授業時間は週10時間前後だったが、授業があろうがなかろうが、当時住んでいた鎌倉から学校のある横須賀まで毎日出勤して、午前8時から午後3時まですることがなくてもいなければならなかった。常人ならば「いればいいだけなんて緩くて最高の職場じゃん!」と歓喜するだろうが、天才芥川としては「この俺をただただ待機させるとは何事か」と思ったのか、苦痛でたまらないと周囲に漏らすようになる。

おまけに、海軍の軍拡張方針に沿い、生徒数が今後激増する予定で、煩雑さが増すのも必至のため、もう、やってられんと本格的に転職を考える。

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偉人たちの仕事列伝 どのように働くか?それが問題だ

栗下直也

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sayusha 【連載更新】経済記者で注目書き手が描く偉人たちの「働き方」列伝!!! 5ヶ月前 replyretweetfavorite