長女の方が可愛い」えこひいきする私に次女がとった驚きの行動とは

突然の離婚により、娘ふたりを育てることになった女装が趣味の小説家。「シングルファーザー」になってみると、彼にはこれまで想像もしなかったことが待ち受けていた……。今回のテーマは、育児をするうえでの正しさとは何か。長女を「えこひいきしていた」という仙田さんに対して、次女は驚きの行動をとります。

後悔しながら死にたくはない


「ひとりの人間」であると同時に、「子どもの親」でもある。

それは、2つの人生を生きるようなことだ。

長女(7)が描いたチョーク画

ひとりの人間として、私は「やりたいこと」を大切にして生きてきた。

きっかけは30歳の頃。

ひさしぶりに実家に帰った私は、洗面所で歯を磨く父親の後ろ姿を見て愕然とした。

異様に脚が細かったのだ。

背が高くがっしりとしていて健啖家だった父親が、いつのまにか痩せて背が縮み、食も細くなってご飯茶碗に軽く一杯で「ごちそうさま」と言っている……。

—私が生まれたとき父親は30歳だったから、私もあと30年生きればこうなるんや。


そう気づいた私は初めて「死」を意識した。

親も自分も、いつかは死ぬ。

そのいつかは遠い先かもしれないし、5秒後かもしれない。

—だったら、「あれやっとけばよかった」と後悔しながら死にたくない、やりたいことは全部やっておきたい。

強くそう思った。


「やりたいこと」「面白いこと」を選んで生きてきた


さらに私は小説を書いていて、経験したことはすべて何らかの形で作品に昇華させられる。

だから日々の小さな選択から、人生を左右する大きな選択に至るまで、「やりたいこと」、「面白いと思えること」を基準にして選んできた。

30代後半になって女装を再開したのも、そのひとつ。


逆に、「男だから~しなければならない」、「年齢を考えるとそろそろ~したほうがいい」というような規範には全く従ってこなかった。

その意味では、とてもシンプルに生きてきた。

ひとつひとつの選択に、迷いも悔いもなかった。


親として生きることは「正しさ」を求めること


ところが子どもが生まれて、「ひとりの人間」であると同時に「子どもの親」としても生きるようになってから、「やりたいこと」、「面白いと思えること」を第一優先にしたシンプルな生き方はできなくなってしまった。

いわゆる「ひとり親」になってからは尚更だ。

子どもの親としての私は、「正しさ」を、さまざまな選択の基準にするようになった。


たとえば子どもが「頭が痛い」と言っている。

測ってみると熱はないが、辛そうにはしている。

そんなとき、保育園に行かせるべきか休ませるべきか?


—熱はなくても体調がよくないのかもしれないし、疲れているのかもしれず、私のそばにいれば安心するだろう、保育園は義務教育ではないし、たまには休ませてもいいのではないか、でもたぶん、休ませたら休ませたで、すぐ元気になって退屈しだすだろうし、なんやかんや構いにくるから私は仕事ができなくなってしまう、熱がなければ行かせるようにしている、と看護師のママ友が言ってたし、今回は行かせることにするか……。

そんなことをあれこれ考えて、行かせるという決断をする。


その決断は、私の「やりたいこと」、「面白いと思えること」では全くない。

子どものために、何をどうすれば最適なのか、正しいのか、ということだけを考えた結論だ。


「正しさ」の正しさは知ることができない


次女(5)が描いたチョーク画

ただし、ここが難しいところなのだが、「正しさ」の正しさには、絶対的な基準がない。

いまここでは正しいと思えることも、ずっと後になればそうは思えなくなるかもしれないのだ。

たとえば、こんなふうに考えが変わるかもしれない。


—仕事ができないと確かに収入が減ってしまうが、後でいくらでも取り戻せる、それよりも、「頭が痛い」というのは子どもの甘えたいというメッセージなのだから、そちらを優先して、たまには保育園を休ませて親子でのんびりする時間を作ってもよかったんじゃないか。


あるいは、「正しさ」を拠り所にして決めたことが、間違った結果をもたらすこともあるだろう。


たとえば「人を殺す」という行為は、戦時下では正しいこととされるが、平時では間違ったことになる。

さらに、殺人者は法によって裁かれ、判例に基づいて死刑宣告を下される場合もある。

しかも法律は、国や時代によってさまざまに形を変える。


こうした構造を前にすると、「正しさ」には絶対的な根拠などないことがわかる。

だから、「正しさ」の正しさを私は知ることができない。


それは私の外側にあり、時間が経って何らかの結果をもたらしたときに明らかになるのだ。

その結果はまた時間が経てば、全く違う結果をもたらすかもしれない。


「正しさ」はギャンブルのようなもの


子育てにおいて、「正しさ」に基づいて何かを選ぶことは、その意味でギャンブルのようなものだといえる。

正解かもしれないし、間違いかもしれないが、それはずっと後にならなければわからないのだ。


そんなふうに、「やりたいこと」、「面白いと思えること」よりも「正しさ」を優先させることが、私にとって「子どもの親」として生きることだ。

子どもがまだまだ手のかかる年齢のうちは、私も親として幼く、迷い続けなければならないだろう。


我慢強く、感情をあまりださない長女


長女は7歳で、この春から小学2年生になった。

長女だからか、両親の離婚を経験したからか、それとも元々の性格なのか、とても我慢強く、感情をあまり外にださない。


たとえば先日、シャーベットの空き容器(プラスチック製でみかんの形をしていて、長女は「みかんカップ」と呼んでいる)を口に当てて遊んでいたところ、口の周りが内出血して真っ赤になり、カールおじさんみたいな顔になってしまった。


「恥ずかしいから」と、長女は2、3日マスクをして、外で友達と遊ぶときもずっと外さなかった。

近所の友達の家に招かれてご飯をご馳走になったときも、「お腹いっぱいなの」と嘘をついて食べなかった。


こんなに小さいのに、恥じらいを知ってるんや、と私は驚きながら、子どもの友達のお母さんに事情を話して長女のご飯を取っておいてもらい、後で誰も見ていない隙に食べさせた。


「きつねさんタッチーっっっ!!」


乳児のあいだ、休日は私が食事やお風呂を担当し、出かけるときには抱っこをしていた。

次女が生まれてからは、そのまま私が長女担当、元妻が次女担当という形で役割分担をしていた。


そのせいか、長女は小さな頃からパパっ子だった。

1~2歳のまだ眠りの浅かった頃、寝かしつけを終えてから仕事をしようと寝室をでると、しばらくして長女が目をこすりながら起きてきて、私のスウェットの裾を引っ張って、一緒に寝ようと地団駄を踏むことがよくあった。


初めて家族旅行に行って旅館に泊まったとき、私がタバコを吸いに部屋の外にでようとすると顔を真っ赤にして大声で泣き喚き、その声は喫煙所まで響いてきて、私が部屋に戻るまで続いた。


5歳になっても、私が仕事に行こうとすると玄関まで泣きながらついてきて、鍵を閉めて行こうとしても、自分で鍵を開けて走って追いかけてきた。

仕方なく、私は靴とカバンを持って部屋に戻り、ベランダを乗り越えて外にでた。

そして、マンションの1階に住んでいたからできたことだが、ベランダの柵越しに長女とハイタッチをする。

ふつうのタッチ、そーっとタッチ(人差し指だけで触れあう)、きつねさんタッチ(指できつねの形を作り、口の部分で触れあう)を何回も繰り返した。


きりがないので、適当なところで切りあげて離れると、長女は大泣きする。

柵のあいだから手を突きだして「きつねさんタッチーっっっ!!」と叫びながら。


7歳になったいまではさすがに泣き喚くことはないが、友達との関りのなかで強く自己主張することができず、悔しい思いや悲しい思いをして帰ってくることがたまにあり、そうした思いを話してくれることがある。


一緒に解決策を見つけることもあれば、ただただ話を聞いて気持ちに寄り添うときもある。

言葉を介するようにはなったが、私と長女の関係は「きつねさんタッチーっっっ!!」の頃から変わっていない。


長女の方が次女より可愛く思えていた


次女はいま5歳で、この春から保育園の年長組になった。

乳児の頃にはママにべったりだったため、私は次女と接する機会が長女よりは少なかった。

接し方も自分のなかで定まらず、すでにできあがっていた長女との関係性の方を大切にしてしまっていた。


次女には申し訳ないが、どこかで長女の方が次女より可愛いと思っていた。

というよりも、長女がもしいなくなれば生きていけないというくらい、長女にとても執着していた。

元妻や母親や友達からも指摘されたことがあるので、態度にまでその気持ちは表れていたかもしれない。


きょうだいのどちらかを、親がえこひいきしていれば、子どもには伝わってしまうのではないだろうか。

私自身、父親が妹をえこひいきしていると感じたことがあった。

小学生の頃に、家族旅行に行った帰りの車のなかでのこと。

調子に乗って大声で歌っていたところ、とつぜん父親が運転席から、私めがけてカセットテープを投げつけてきたのだ。

すると母親が、「お父さん、なんで学ばっかりいじめるの」と父親をたしなめた。

私は強烈な違和感に襲われた。


なんでもない日常の一場面と言えなくもないし、親はきっと覚えていないだろう。

だが「自分は嫌われている」と感じた子どもは一生忘れられないのではないか。


そうなることを恐れた私は、次女が生まれると長女が寂しがるのではと、なにかと長女のことを気にかけるようになってしまったのだ。


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女装パパが「ママ」をしながら、家族と愛と性について考えてみた。

仙田学

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