山下達郎「志村さんには11の声色がある」
志村けん(2020年3月29日没、70歳)のモノマネをする人は多いが、それはたいてい彼がバカ殿などを演じるときの甲高い声である。志村の地声はむしろ低いが、そこまでモノマネする人はほとんどいない(少なくとも私は知らない)。彼はコントのなかで、甲高い声でおどけていたのが急に低い声ですごんだりと、声色を使い分けながら笑いを誘っていたのを思えば、どうして誰も真似しないのか不思議ではある。
ちなみに彼が出す声は、聴く人が聴くとかなり幅があるらしい。《志村さんの声色が幾つあるかと勘定したら、11あった》と当人との対談で指摘したのは、ミュージシャンの山下達郎である(『週刊プレイボーイ』1983年7月19日号)。対談当時、志村はドリフターズのメンバーとして人気を集めていたが、山下は同業の妻・竹内まりやともどもドリフの大ファンだった。対談での発言によれば、竹内が録画しておいた『ドリフ大爆笑』(フジテレビ)を眠れない夜に見始めたところ、朝10時まで見てしまったという。山下・竹内夫妻だけでなく、音楽界には志村やドリフターズのファンが多い。志村の著書『変なおじさん』の文庫化に際しては吉田拓郎が解説を担当し、ドリフの番組を録画して見るうち、夢にまで彼らのコントが出てくるようになったと明かしている。
志村自身、音楽が好きで、演じるコントにも反映されていたことはつとに知られる。たとえば、ドリフの代表的番組『8時だョ!全員集合』(TBS)で1980年前後、加藤茶とつけひげ姿でさまざまな芸に挑戦した人気コーナー「ひげダンス」の音楽は、アメリカのソウルシンガー、テディ・ペンダーグラスの歌う「Do Me」をアレンジしたものだった。
『全員集合』終了後、自分の番組を始めたころには、コントのBGMで使う曲はすべて自ら選んでいた。BGMは普通、ビデオ編集のときに録音するものだが、志村の番組では現場で音楽を流しながらコントを演じたという。《音楽があると、やる側のノリが全然違う。そっちのメリットのほうが大きい》というのがその理由だ(『変なおじさん【完全版】』)。ドリフ時代よりコメディアン以外の芸能人とコントを演じることが多かったが、なかでも歌手が相手だとやりやすかったとも語っている。
《彼らはリズム感があって、間の外し方もうまいから。/笑いのひとつに、やってることが順調に進んでいる時に、アクシデントが起こってうまくいかなくなるからおかしいというのがある。それは音楽で、テンポをずらしたり、リズムを外したりする感覚と共通する。/音楽を知ってる連中の方が、それを体でわかってるからやりやすい》(前掲書)
歌手が相手というと、沢田研二とのコントも『全員集合』や『ドリフ大爆笑』ではおなじみだった。なかでも沢田が鏡に映った志村を演じるコントは印象深い。そこでは当然ながら、沢田は志村と動きを合わせないといけないのだが、志村がボールをつき始めたかと思うといきなりやめたり、あるいはバナナの皮をむいて口に持っていき、かじったように見せかけてじつはくわえただけだったりと、予想外の行動をして沢田を戸惑わせることで笑いを誘った。当時の2人はいずれも長髪で、背格好もだいたい同じ、顔も何となく似ていたから生まれたコントである。
このコントでは、志村がスター歌手で、沢田はその付き人という役どころであった(途中、楽屋から付き人がいなくなったかと思うと鏡のなかにいたというストーリーになっていた)。当代の大スターだった沢田と立場を逆転したところがミソである。しかし2人の鏡を介したやりとりは、そんなことを知らない人にもきっと笑えるはずだ。
思えば、日本のテレビバラエティでは、80年代以降、コントも含め、出演者のパーソナリティや私生活などを前提としてつくられることが多くなった。そのなかにあって、志村のコントは、そうした前提や文脈を知らなくても笑えるところに大きな特色があった。一目見れば誰もが笑えるコントこそ、彼が生涯を通して目指したものだ。なぜ、志村は時代の流れに反し、このスタイルを貫いたのか。それを探るためにも、彼がコメディアンとして才能を開花するまでの足跡をたどってみたい。
「志村しかいない」いかりやの決断が運命を変える
志村けんは、1950年2月20日、東京都北多摩郡東村山町(現・東村山市)に生まれた。本名は志村康徳。父は元軍人で、戦後は小学校の教師となり校長まで務めた厳格な人だったという。そんな父が、喜劇役者の榎本健一の「雲の上団五郎一座」の舞台をテレビで家族一緒に見ていたところ、笑いをこらえていた。それを見て、お笑いっていいなと思ったのが、志村がその道を志すきっかけとなる。ちなみに彼の芸名の「けん」は、デビュー直前に亡くなった父の名前・憲司からとったものだ。
小学4年のときには、柳家金語楼の落語のレコードをもとに友人とコントをつくり、学級会みたいなところで演じたことがあった。都立久留米高校に入ってからも、文化祭でトリオを組み、地元の公会堂でコントを披露している。アメリカの喜劇俳優ジェリー・ルイスの映画を、学校をサボって新宿の映画館へ観に行ったのもこのころだ。その記憶はのちのちまで鮮烈に彼のなかに残った。
《台詞が一切なくて、ショート・コントを延々と続けているだけというものなんですが、「笑い」を彼は体だけで表現していたんです。日本人の、しかもまだ一〇代の僕にさえ、その可笑しさが分かる。本当に可笑しくて、可笑しくて、涙流して笑ったんです。結局三回見たんですけど、何回見ても可笑しさは薄れてこない。それが一番ショックでしたね。本当に単純なことしかしないのにもかかわらずに。しばらくの間、学校に行ってジェリー・リー(原文ママ)・ルイスの真似ばかりしていましたよ》(『SWITCH』1991年11月号)
高校2年のとき、進路相談で担任の教師に、笑いの道に進むとはっきり伝えた。その担任の遠い知り合いに喜劇役者の由利徹がいるというので紹介してもらい、訪ねたことがある。由利にはすでに何人か弟子がおり、入門はかなわなかった。「とりあえず大学に行ったほうがいいですか」と訊くと、「大学に行ったら気が変わっちゃうぞ」と言われ、卒業したらすぐに笑いの世界に入る決意を固める。
笑いの若手を育てる学校などなかった当時、その世界に入るには付き人になるか弟子入りするしかなかった。そこで彼は、コント55号かドリフターズのどちらの門を叩くかで悩んだ。コント55号は萩本欽一と坂上二郎のコンビで、体を張ったコントでこのころテレビで人気が爆発していた。一方のドリフターズはまださほどテレビには出ておらず、地方巡業を中心に活動していたが、楽器を使って笑わせるコミックバンドのスタイルに志村は惹かれるものがあった。
結局、子供のころから音楽が好きだったし、音楽の要素が入っているほうが笑いにも幅が出るだろうと思い、ドリフを選び、リーダーのいかりや長介の家を訪ねた。それは高校卒業を間近に控えた2月のこと。いかりやは仕事で留守だったため、雪の降るなか待ち続け、夜になってようやく帰宅したところで会えた。さっそく入門を申し出ると、3人いる付き人のうちひとりがやめそうだから、そのときは連絡すると言われる。後日、電話で呼び出されると、付き人として使ってやると許しが出た。では、4月からよろしくお願いしますと応えたところ、「バカ野郎! 明日からだ」とどやされ、卒業式前にもかかわらず、東北へ1週間の巡業に同行することになった。
以来、巡業に出るたびに重い楽器を運んでステージにセッティングするなど、ハードな仕事をこなしつつも、暇を見つけてはネタをつくり、ドリフのメンバーを前に披露していた。ただ、付き人になったのはあくまで笑いの勉強をするためで、自分がメンバーになるつもりはなかったという。修業期間も3年と決めていた。しかし付き人を1年半続けるうちに、自分は世の中のことを何も知らないと不安になってくる。そこで1年間ほかの仕事をやってみたいといかりやに願い出るも、聞き入れられなかった。結局、彼は別の付き人に、1年間で戻るからと伝えてドリフから離れた。
それからというもの、道路標識をつくる会社で働いたり、スナックでバーテンダーをしたりと、社会勉強を積む。そして約束どおり1年後にドリフに戻ろうとしたのだが、「志村は逃げた」ということになっていた。しかたがないので、かわいがってくれていた加藤茶を介していかりやに頼み、復帰させてもらう。ドリフは志村が付き人を一旦やめるのと相前後して、1969年10月から『全員集合』をスタートさせ、人気がうなぎ上りとなっていた。
復帰後はしばらく加藤の家に居候させてもらった。そのあいだ、仕事の現場には加藤の運転する車で通い、風呂にも先に入ったりしていたというから、ちゃっかりしている。いずれ独り立ちするために3年間限定で付き人になったことといい、なるべく合理的に自分の夢をかなえようとしたあたりは、戦後生まれの“現代っ子”ならではというべきか。
復帰してまた1年半経った1972年には、いかりやの許しを得て、一緒に付き人をしていた仲間のひとりとコンビを結成する。当初のコンビ名はチャーミングコンビだったが、「おまえらは絶対チャーミングじゃねえだろう」と周りに言われて、マックボンボンに改名した。このコンビでドリフの地方巡業で前座をやらせてもらったのを手始めに、人気歌手のショーにも出演するようになる。小柳ルミ子のショーでは、当時コメディアンなら誰もが憧れた東京・有楽町の日本劇場(日劇)のステージにも立ち、感激したという。また、三波春夫の歌謡ショーの前座では、お年寄りの客たちを前に持ちネタをやってもまったくウケなかったのが、客層に合わせてネタをつくってやってみると一転して大喜びされた。ここから彼は「何があっても客のせいにしちゃいけない」と学んだ。
マックボンボンはやがてテレビでレギュラー番組を持つまでになったが、いかりやはそれを知って激怒した。ほんの一握りしか持ちネタのない若手が、テレビでもみくちゃにされたらあっという間につぶされてしまう。せめて2~3年は地方巡業で経験を積み、そのあいだにテレビに出ても持ちこたえられるだけの自分たちのギャグをつくりあげるべきだと考えていたからだ(
独り立ちに失敗し、再びドリフの付き人に戻った志村だが、そこへ思いがけない話が転がり込む。ドリフから荒井注がやめることになり、その代わりに抜擢されたのだ。いかりやによれば、荒井から脱退を切り出され、急遽、代わりのメンバーを育てねばならなくなったとき、マネージャーの井澤健(現・イザワオフィス社長)との緊急会議で「志村けんしかいない」と意見が一致したという(いかりや長介『だめだこりゃ』)。志村はネタがつくれることが決め手となった。こうして1973年12月から志村はドリフの見習いとして『全員集合』の舞台に立ち始め、翌1974年3月末には荒井の脱退にともない、ついに正式メンバーとなった。
すでに『全員集合』は、志村が見習いとなる8ヵ月前の1973年4月7日の放送が視聴率50.5%を記録するなど快進撃を続け、“お化け番組”とまで呼ばれていた。だが、荒井の脱退を境に視聴率がやや下がってきた。そのなかで志村はなかなか笑いがとれない。いかりやもドリフの再建が思い通りに運ばないうえ、『全員集合』のスタートから5年以上が経ち、疲れ果てていた。そこで、ほかのメンバーともども一時休養を申し入れ、1975年7~8月は『全員集合』を総集編でしのぐことになる。
秋に入って通常放送が再開されたものの、10月には同じ土曜夜8時台にフジテレビで放送されていた『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(『欽ドン』)に視聴率を抜かれた。『欽ドン』は、コント55号から個人での活動へと移行した萩本欽一が若手の放送作家を育てながら準備し、この年春より始めた番組だ。萩本はこれ以前、やはりフジの同じ時間帯にやっていた『コント55号の世界は笑う』が、後発の『全員集合』に視聴率で追い抜かれており、ドリフとは因縁があった。
グループの再建がままならないうちに、裏番組に強力なライバルが現れ、ドリフと『全員集合』は危機に陥った。この局面を打開したのは、ほかでもない志村だった。
志村のひとり舞台となった『全員集合』
1976年3月、『全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで、志村は故郷ではどの家にもレコードがあったという「東村山音頭」をアレンジして歌ってみせ、たちまち人気を集める。これにより志村はドリフ加入から3年目にしてようやく世間に認知された。ドリフも危機を脱するとともに、そのコントのスタイルにも変化が現れる。
志村の加入以前のドリフの笑いについて、いかりやは、《私という強い「権力者」がいて、残りの四人が弱者で、私に対してそれぞれ不満を持っている、という人間関係での笑い》というふうに説明し、《ドリフの笑いの成功は、ギャグが独創的であったわけでもなんでもなくて、このメンバーの位置関係を作ったことにあるとおもう。もし、この位置関係がなければ、早々にネタ切れになっていただろう》と後年振り返っている(『だめだこりゃ』)。そのうえで、志村加入後の変化を次のように語った。
《メンバーの個性に
メンバーの関係性にもとづくドリフの笑いが、志村の加入後、ギャグの連発へと変わったことは、志村がバカ殿をはじめ、後年にいたるまでさまざまなキャラクターを生み出す発端にもなったのではないか。つまり、志村だけは役割を固定されないがゆえ、コントごとにキャラを変えることが可能となり、そこに創造の余地が生まれたと思うのだ。
『全員集合』を企画したプロデューサーの居作昌果も、それまでのドリフのコントは、加藤茶が主役ではあったものの、あくまで5人のアンサンブルのなかで加藤が笑いをとるという形だったのが、志村が主役になってからのコントは彼のひとり舞台に近いと書いている(『8時だョ!全員集合 伝説』)。
「東村山音頭」で志村がブレイクしたとき、いかりやはすでに40代も半ばで、動きがつらくなっていた。そもそも荒井注が脱退した理由も体力の限界であった。しかしメンバーが歳をとって動けなくなったからといって、いかりやはドリフをおしまいにはしたくなかった。そのために志村をリーダーとして若手を育てねばならないという思いが強まり、《何十年か後のドリフは、メンバーがすっかり入れ替わっていてもいいのではないかとさえ考えていた》という(『だめだこりゃ』)。
1981年、のどのポリープの手術後2週間、声を出せなくなったいかりやに代わり、志村が『全員集合』でリーダー的役割を担った。それはいかりやの望むところではあっただろう。だが、志村がいかりやと対等の位置についたという意味では、4年後に番組が終了し、替わって志村と加藤のコンビによる『加トちゃんケンちゃん・ごきげんテレビ』が始まる伏線になったともいえる。
『全員集合』から引き継いだ「チームワークによるコント」
『全員集合』が終わったあと、『ごきげんテレビ』と1977年より続く『ドリフ大爆笑』を除けば、志村はドリフのメンバーと別れて活動するようになった。しかし、新たに始まった『志村けんのバカ殿様』も『志村けんのだいじょうぶだぁ』(いずれもフジテレビ)も、基本的にはドリフ時代と同じく「コントはチームワークで見せるもの」という考えを踏襲している。とはいえ、これら番組で共演した田代まさしや桑野信義たちとは、ドリフみたいにグループでいつも一緒にいるわけではない。そこで当初は飲みに行ったりしながら、心を通わせ、しだいに阿吽の呼吸でコントができるようになったという。
それはスタッフについても同じだった。気脈の通じた構成作家をひとり、ポケットマネーを出して自分の専属にしたことが一時期あり、仕事だけでなく飲みに行くときもずっと一緒だった。そのうち互いに口調まで似てきたおかげで、その作家の書いてくるセリフはすっとしゃべれた。それだけに作家がくも膜下出血で倒れたときには困ったという。
志村の番組ではまた、カメラワークやカット割りも、彼がディレクターとカメラマンと話し合いながら決めていった。画面を切り替えるスイッチャーにも長らく一緒にやってきた人がおり、志村が何か面白いことを言ったりやったりしそうなときには表情だけで察知し、しっかり拾ってくれた。《だから、僕のコントは……なんて言ってるけど、実際はスタッフ連中の協力がないと何もできない。コントの出来を決めるのは個人の力じゃなくて総合力だ。/逆に言うと、自分だけじゃできないからコントづくりはおもしろい》と、志村はチームプレイを楽しんでいた(『変なおじさん【完全版】』)。
先に志村加入によりドリフのコントが変わったという、いかりやや『全員集合』のプロデューサーの証言をとりあげたが、志村自身も変化を感じていた。彼いわく、《僕が入る前は、わりと突拍子もない格好とか、突然ハイテンションでくる短いコントが多かったけど、僕が入ってから生活っぽいコントが増えたと思う。/例えば、仲本工事さんと僕がやった夫婦のコントも、初めはジワジワと日常的なことから入っていって、最後にプロレスまがいのことになるって展開があった》(前掲書)。入口が普通で、見ている者を「そんなやついるいる」「そんなことってあるよな」と引き込みながら、だんだん現実にはありえない展開になっていくのは、彼の好むパターンだった。
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