「エロティカを書くのは、初めての相手とファックするようなものよ。相手が何を望んでいるかまだ正確にはわからないから、それらしいことを片っ端からしてみる。どんなことでもすべて……。で、その文章をどう思う?」
「いまいちだな」
ザックは紙を折りたたんだ。
「“だ”の使いすぎだ」
「ざっくりとした下書きだもの」
彼女は悪びれずに言った。
「最後の一文はいちばん力強い——“彼の不在という、同じように強力な存在”」
ザックはどういうわけかその紙を返さず、ポケットに突っこんだ。
「そこはよかった」
彼女はゆっくりと物騒な微笑みを浮かべた。
「あなたのことよ」
ザックは一瞬、彼女を見つめることしかできなかった。さっきの紙をまた取り出す。
「これが、僕だと?」
ザックは尋ねた。肌がかっとほてる。
「そうよ。今朝あなたが帰ったあとすぐに書いたの。あなたが来たことに触発されて」
ザックはごくりとつばをのみ、紙を広げた。“短くカットされた黒髪……氷の色をした目……ジーンズに黒のTシャツ……”ザックそのものだ。
「ちょっと訊くが」
ザックは会話の主導権を取り戻そうとして言った。
「今朝、僕は君を繰り返し侮辱しなかったか?」
「あなたの不平にはぐっときちゃったわ。私は意地悪をしてくる男が好きなの」
彼女は小首をかしげた。黒髪が額にかかり、黒みを帯びた緑色の目を隠す。
「すまない。いまは言葉が出ない」
「あなたの命令よ。知っていることを書かずに、知りたいことを書けと言ったのはあなただわ。私は……あなたを知りたいの」
彼女が一歩近づくと、ザックの心臓は落下して、股間の近くに着地した。
「ミズ・サザリン、君は何者なんだ」
どういうつもりで訊いたのかよくわからない。
「私はただの作家よ。ノーラという名の作家。あなたもそう呼んでちょうだい、ザック」
「ではノーラ、申し訳ないが、僕は担当する作家に言い寄られるのは慣れていない。とくに、言葉でさんざん罵倒したあとなのに」
ノーラの目が愉快そうに光った。
「言葉で罵倒? ザック、私の世界では“淫売”は愛情を示す言葉よ。私の世界を見たい?」
「けっこうだ」
「残念」
驚きも失望も感じられない声だ。
「それじゃ、どこへ行きましょうか? あなたをこのパーティーから救い出すと約束したし」
「本当は抜けるべきではないんだ」
ふたりきりになった瞬間、いったい何が起こるのか。
「行きましょうよ。こんなパーティー、くだらないわ。先日受けた子宮がん検診のほうがずっと楽しかったな」
ザックは笑いを咳払いでごまかした。
「確かに君は言葉の扱いがうまいな」
「だったら、私の編集をしてくれる? お願い」
彼女は純真を装ってまつげをひらひらさせた。
「後悔させないから」
ザックは天井を見上げた。僕はいったい何に身を投じようとしている? ノーラ・サザリン……ロサンゼルスに向けて出発するまで、残された時間はたった六週間だ。なぜ僕は、ノーラ・サザリンとその作品にかかわってもいいかと思い始めている? 理由はわかっている。いま僕の人生には、ほかに何もないからだ。少なくとも、ノーラ・サザリンと仕事をすることで、自分の悲惨なありさまから目をそらせるかもしれない。
後悔しないだろうか? すでにしている。
「君と仕事をすれば僕のキャリアに傷がつきかねない。それはわかっているだろうな」
ザックは言った。
「僕の専門は文芸小説で——」
「文芸小説?」
「自分がこんなことをしているのが信じられないよ」
ザックは首を振った。
ノーラがぐっと身を寄せてきた。不意に、不愉快なことに、彼女のむき出しの首の長い線が意識された。彼女は温室に咲く花のようなにおいがする。
「私は信じられるわ」
ノーラは吐息混じりにザックの耳にささやいた。
ザックはゆっくりと息を吐き、不本意ながら彼女から離れた。
「僕は残酷な編集者だ」
「残酷なのは好きよ」
「まるまる一冊書き直しをさせるぞ」
「もう私を興奮させようとしてる? やりましょうよ」
「いいだろう」
ザックはついに言った。
「さあ、僕を救出してくれ」
「もしもパーティーを抜け出したことでJ・Pからお目玉を食らったら、私の本に取りかかるために私が言い出したことだと言って」
「帰るならちょっと挨拶をしなければ」
「それはだめ」
ノーラが言う。
「パーティーを抜け出すときにさよならは言わないの。そうやってあなたの居場所に謎を残すのよ。みんな私たちと話をするより、私たちのことを話の種にするほうが、ずっと楽しいわ。もう聞こえてこない? “ザック・イーストンがノーラ・サザリンといま出てったわよ。あのふたり……ひょっとしたら……”」
「僕らはそんな関係じゃない」
ザックはきっぱりと言った。
「それは私もあなたも知ってることだけど、みんなは知らないわ」
ザックは会場を見まわした。そこらじゅうにこちらをひそかにうかがっている目があった。いちばん強烈な視線はトーマス・フィンリーだ。ザックと最もそりの合わない同僚。フィンリーがザックよりもノーラを見つめていることに、ザックは気づいた。
「ゴシップネタにはなりたくないな」
ザックは言った。
「手遅れね。少なくとも私といれば、かなり上等のゴシップになるわ」
彼女は一歩ごとに大胆に足を蹴り出して、階段を下りていった。
窒息しそうなパーティーからようやく解放されたザックは、コートをはおると、すがすがしい冬の宵の空気を吸いこんだ。
まもなくタクシーがノーラの前に停まり、彼女は優雅に乗りこんだ。黒いブーツの脚が車内に消え、ザックは鋭く息を吸った。僕はいったい何をしようとしているのか——もう一度自分に尋ねてから、彼女の隣に乗った。
ザックが同乗してもノーラは何も言わず、ただ首をめぐらせて夜の街を見ている。
ザックは落ち着かず、かつて結婚指輪がはめられていた指をさすった。ノーラが手を伸ばしてきて指をつかみ、眉を引き上げて問いかけた。
「グレースだ」
ザックは答えた。
ノーラはうなずいた。
「プリンセスと結婚していたのね」
プリンセス・グレース——彼女の母親は娘をそう呼んでいた。
「妻はプリンセスと呼ばれるのが嫌いなんだ」
声に苦悩がにじんでしまった。
ノーラはザックの手を持ち上げて、自分の喉に押しつけた。あたたかく柔らかな肌を通して、彼女の脈が伝わってくる。
「ソルンよ」
彼女は言い、ザックの目を見た。その黒く危険な深みに、ザックはかすかに何か人間らしいものを見た——単なる共感ではなく、感情移入を。そしてザックはそれに対して人間らしくないものを感じた——情熱ではなく、純然たる獣の欲求を。その一瞬、ザックは自分の両手が彼女の太腿に食いこみ、彼女のブーツが背中に当たるのを想像した。そして人の心を読む彼女の不気味な能力が、ザックの飢えた目の中にそのイメージを見る前に、視線を引き離した。
タクシーがザックのアパートメントの建物の前に停まると、ノーラはザックの手を放した。ザックはドアを開けて車を降りた。上がっていかないかと誘いたかった。苦痛も、その理由も、すべて忘れられるような数時間を過ごしたい。グレースはもはや気にしないだろう。しかしザックが誘いの言葉を口にする前に、ノーラは手を伸ばしてドアを閉めた。
「ほらね、ザック。言ったとおり、あなたを救い出してあげたわ」
ノーラは、背を向けて建物に入っていくザックを見つめた。打ちひしがれた男ってなんて美しいのだろう。キングズリーはいつも言う——打ちひしがれた美しい男はノーラの得意分野だと。
「お客さん、行き先は?」
ノーラはふと考えた。この先六週間、私はザックと原稿を書き直すことになる。彼が明日から私のお尻を蹴飛ばし始めるなら、今夜は自分でこの小さなお尻を蹴飛ばしておこうか。
「お客さん?」
運転手が促す。
ノーラはマンハッタンのタウンハウスの住所を早口で言い、バックミラー越しに運転手が目を丸くするのを見て笑いそうになった。
「本気かい? あそこはいいとこのお嬢さんが行くような場所じゃないよ」
今度はノーラは大声で笑った。この街のタクシーの運転手は全員がキングズリーの住所を知っている。そこに自家用車で向かうのは、失うものを何も持たない者だ。
ノーラは振り返って街の明かりを見た。厳密に言えばまだ既婚者であるザックのような男とかかわるなんて、ソルンに殺されるかもしれない。
「心配しないで」
ノーラは脚を組み、座席にもたれた。笑わせてくれた礼に、運転手にチップとして百ドルを渡した。
「私はいいとこのお嬢さんじゃないから」
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