「勇気を出してきてくれたんだね」彩香さんは子どものようにうなずく。「この歳まで、ずっと何もせずにきちゃったから。色々街コンとかマッチングアプリとか調べてはみたけど、結局何もできなくて。安定したいって気持ちはあるけど、本当に男の人のこと好きになれるのかとかわからない。自分のことどう見られてるのか不安だし、どうせモテないし選んでもらえないって思ってしまう」彩香さんは急に明るく笑いだす。ほらね、こんなこと何とも思ってないんだからとでも言うように。「なんかネットとか見てると、男の人と恋愛したり付き合えたりする気がしてこなくなるんですよ! 女の人のことエロい目で見たり、バカにしたりマウンティングしたり。そういうの見てると、無理だなーって思う」
「ネットしていると、そういうの見えちゃうもんね」
「そう、そうなんです! 表では繕ってても匿名で本音を言うと、こんな風なんだなって。フツーに対面で喋っててもすぐマウント取ってくるし、そもそもまともに話してもらえない」
彼女は重たすぎる荷物を下ろすように、大きく深呼吸した。この声は硬く冷えていた。「真っ当な人はどこかにいるのかもしれない。でも、わたしのところにそんな人はやってこない。だいいち、そういう人にはもう彼女いたり結婚したりしてるしね」みつさんみたいな人にはわかんないと思うけどと彼女は言い、横を向いた。顔を背けた一瞬、見えた横顔は何かに揺れて怯えていた。
わたしは隣の椅子に座っている彼女に、正面を向いたまま投げかけるように言った。「わかってあげられなくてごめんね。でも、嫌だったこととか人に話せなかったことは、今日ここで好きに言っていいから。全部聞くよ」彼女はこちらをさっと振り向く。今度は笑ってはいなかった。「傷つけるようなこと言って、ごめんなさい。自分でもどうして欲しいのか、もうわかんなくなっちゃって」
「そうだよね」わたしは彩香さんの手を取った。
ここは、すべての関係性の狭間だ。わたしは友人でも恋人でも家族でもなくて、ただの他人、一時だけ接点のある第三者にすぎない。だから自分を取り繕ったり、綺麗な結論なんて出したりしなくていい。曖昧なままでいいし、曖昧でいられるときこそわたしたちは自分本来の姿に返っているのかもしれない。時刻は夕刻を迎えようとしていて、ホテルの部屋から望む夏の空は夜に向かって溶け出そうとしている。
わたしは彩香さんをバスルームに誘った。今日はなんでも愚痴っていいよと言うと、湯船で彼女は色々なことを話してくれた。あれは許せない、これがムカつく。女をなんだと思ってるの。後ろ暗いものを吐き出していくと、彼女のこわばりと緊張がほぐれていくのがわかる。「こういう風に誰かと愚痴言い合えるのすごい嬉しい」「ネットとかでも自由に見えて、戦う姿勢のある人じゃないと意外と発言できないし、あとは受け入れて諦めちゃってる人、多いもんね」とわたしが後ろから声をかけると、彩香さんの丸い肩が下がる。
「疲れちゃったのかな。せっかくレズ風俗に来るんだから何かを学ぶんだ、変えるんだって思ってたけど、そういうのじゃなくなっちゃった」
わたしは手を伸ばして彼女の肩に触れた。「いいんだと思うよ。彩香さんには、ただちょっと休むことが必要なのかなって」そういうと、彩香さんは後ろに体重をかけ、わたしに体を預けてくれた。
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