葛藤とストレスにまみれた暮らし
3月に小学校が休校になってからも、長女は学校に行っている。
授業はなく、「特例預かり」という名目で8時半から15時半まで学校は子どもたちを見ていてくれる。
子どもたちは自習用に配られた教材を使って勉強をしたり、折り紙やお絵かきをしたり読書をしたりして過ごす。
教室には先生が常駐していて、勉強をするよう促したりしてくれている。
次女(5)の描いた絵。周りのスタンプは道端の花のつぼみを切ってインクをつけたもの。
リスクを考えると自宅で過ごさせるべきだろうが、私は自宅で文章を書く仕事をしていて、周りに人がいると集中力が落ちて作業効率が大きく下がってしまい、収入に響いてしまうのだ。
子どもが感染する、あるいは感染源となって誰かに移してしまうリスクと、私が仕事をしづらくなることによる経済的なリスクを天秤にかけたうえで、葛藤を抱えながら学校に行かせている。
先生たちに申し訳ない気持ちがある一方で、2年生は40人弱のうち4人しか来ていなくて、ひとつの教室にオセロの陣取りのように離れて座っているので、人の多いスーパーや公園などをうろうろするよりはリスクが低いのではとも思う。
次女も同じ理由で、保育園に行かせている。
私はいま、生まれて初めて、生きていくだけで精いっぱいという状況におかれている。
残念ながら女装を楽しむ余裕もない。
自分が感染してしまう、あるいは誰かに感染させてしまうのではないかというリスクと、それを避けることによって経済的な打撃を受けてしまうリスクの間で、いま世界中の人々が大きな葛藤を抱えながら暮らしている。
なるべくストレスを減らし、かつある程度の安全性を担保したうえで経済的な打撃を最小限に抑えるためには、次から次へと毎日のように迫ってくるさまざまな選択肢を焦らず慌てず見極めて、最良のものを選ばなければならない。
そうした選択を行うためには冷静であることが求められる。
言い換えると、バランス感覚が必要になってくる。
子どもたちと一緒に観た映画「ベスト・キッド」
——バランスが大事だ。空手だけでなく人生においても。
映画「ベスト・キッド」にでてくるセリフのなかで、最も心に残ったものだ。
1984年のアメリカ映画で、私は子どもの頃に観た記憶があるが、内容はほとんど覚えていなかった。
ある雨の日曜日にレンタル店で借りてきて観ようと思ったのは、子どもたちに空手を習わせているから。
映画のストーリーを簡単に紹介すると……。
高校生のダニエルさんは、転校先の学校になかなか馴染めずにいるのだが、同級生のアリーという少女と仲良くなる。
そのためアリーの元カレであるジョニーの逆恨みを買い、さんざんいじめられる。
ハロウィンの日に集団リンチを受けていたダニエルさんは、アパートの管理人のミヤギに助けられる。
沖縄出身の日本人であるミヤギは、空手の達人だった。
そのミヤギに空手の手ほどきを受け、ダニエルさんは空手の大会に出場して、いじめっ子のジョニーを負かして優勝する。
こうして要約してみると、「ドラえもん」にそっくりだ。
ダニエルさん(のび太)は、アリー(しずかちゃん)と仲良くなる一方でジョニー(ジャイアン)にいじめられるが、ミヤギ(ドラえもん)に助けられて勝つ。
そのせいか、子どもたちは食い入るように観ていた。
人生に必要なものはバランスだ
この作品の見どころは、空手の練習シーンだ。
強くなる方法を教わろうと意気ごむダニエルさんに、ミヤギが指示したのは車のワックスがけや、塀のペンキ塗り、床磨きなど雑用ばかり。
文句を言いながらこなすダニエルさん同様、子どもたちも「ミヤギ、家の用事させたいだけちゃうん」と不審な顔をしていた。
ところが、いざ稽古が始まると、ミヤギのパンチやキックをダニエルさんはすべて防御できるようになっていた。
なんとワックスがけなどの日常的な身のこなしの反復が、そのまま空手の防御の構えの練習になっていたのだ。
ようやくまともに稽古を始めてからも、ミヤギは「空手を身につけるのは、戦わないため」という姿勢を崩さない。
そして揺れる舟の舳先や、細い杭の上や、荒い波の立つ海のなかで空手の型を教えながら、こう伝える。
——バランスが大事だ。空手だけでなく人生においても。
ベスト・キッドはシリーズ化されていて、ミヤギの故郷である沖縄を舞台にした「ベスト・キッド2」では、ミヤギに空手を教えた父親が病死する。
海岸で放心しているミヤギの隣に、ダニエルさんは寄り添うように座って話す。
かつて父親を亡くしたとき、自分は途方に暮れ、いい息子ではなかったことを激しく後悔した。
だがしばらく経って、ひとつだけとても良いことをしたと気がついた。
それは、父親が息を引き取るとき、そばにいて手を握っていたこと。
ダニエルさんの話を聞きながら、ミヤギは涙を流す。
人を許す心を持たない者は、死ぬより辛い人生を送らなければならない
映画に観入る女装姿の筆者
少年と初老の男とのあいだの、師弟でもあり、疑似親子でもあり、親友でもあるという関係性は、シリーズ全体の核になっている。
35年後に作られた続編「コブラ会」シリーズでは、初老に差しかかったダニエルさんとジョニー(ジャイアン)がふたたび対決するのだが、主人公がジョニーに代わっている。
そしてジョニーは同じアパートに住むいじめられっ子の少年を救って空手を教え、車会社を設立して成功をおさめていたダニエルさんは、それに歯向かうかのように道場を開き、なんとジョニーの息子を弟子にする。
実はジョニーも幼い頃に父親を亡くし、母親と継父に育てられた過去を持つ。
そして結婚後に母親を亡くしたことで、自分が父親になることに恐れを抱き、アルコールに溺れて離婚に至った。
ジョニー目線で物語が進むので、「コブラ会」を観ていると、オリジナル作品では純粋無垢だったダニエルさんが若干嫌なヤツに思えてくる。
物語の構造からシリーズ全体にわたる細部の設定にまで、すべてにおいて「バランスが大切」という思考が貫かれているところが「ベスト・キッド」シリーズの大きな魅力だ。
ミヤギの教えには素晴らしいものが幾つもある。
——人を許す心を持たない者は、死ぬより辛い人生を送らなければならない。
枕にしがみついて布団の上を転がりたくなるくらい、痺れる言葉だ。
「ベスト・キッド」シリーズに私がとてもハマっているのは、何よりも子どもたちが空手を習っているからで、子どもたちの空手の先生からも、ミヤギと同じような言葉をいくつも聞いた。
初めて道場を訪ねたとき、「なぜお子さんに空手を習わせたいのですか?」と聞かれて、私は「強い子になってほしいからです」と答えた。
すると先生はこう返したのだ。
——強くあることより大事なのは、耐えることです。生きていると、さまざまな困難にぶつかりますが、そのときに慌てず焦らず、じっと耐えて状況が変わるのを待つこと。空手は、そういう精神状態を体で覚えていくものです。
withコロナ時代のフィクションの力とは
「ベスト・キッド」シリーズを、私は自分の人生と重ねるようにして観ている。
Withコロナ時代には、フィクションの持つそのような力に注目が集まるのではないだろうか。
つまり、何も考えずに皆で共有して楽しめる娯楽としてよりも、個々人が生きていくためのヒントや活力をそこに見いだせるようなものとしての、フィクションの力。
先日ある編集者さんと話していて、「小説が読めなくなった」という話で盛りあがった。
登場人物がマスクもつけずに満員電車に乗って会社に行き、夕方には飲み屋で唾を飛ばしながら同僚とお喋りしているシーンがでてくると、「どこの星の話やろ」と思ってしまう。
リアリティがないのだ。
実際、テレビアニメの「サザエさん」で、GWに旅行の計画を立てるシーンがでてきたことに対して苦情が殺到したという。
自粛ムードの高まるなか、人々のストレスも限界に近づいていることが窺える話ではあるが、そのことを差し引いても、withコロナ時代には、生き残れるフィクションとそうではないものとが大きく分かれるだろう。
少なくとも、さまざまなリスクを天秤にかけてバランスを取りながら、最良の選択を続けていかなければならない日常に根差したフィクションが、今後は求められるのではないだろうか。
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