蘭ちゃんへ
こんにちは!
お出かけができず季節を感じにくい今年の春ですが、買い物がてら散歩にでると、先週咲いていた花が散って別の花が咲いていて、ちゃんと時間は過ぎているんだなあと感じました。ツツジとハナミズキとモッコウバラがとてもきれいでした。
外出自粛の生活はしばらく続きそうですが、この中で楽しみを見つけたり、やり過ごし方を知ったりと、すこしずつ状況に適応していくのを観察している冷静な自分もいます。こんな世界に慣れたくはないけど、この体験は貴重だからちゃんと覚えておこうと腹をくくる感じ。
コロナウイルスの影響で、わたしも仕事に大きな影響があって、経営しているクッキー屋さんを休業しました。製造さえできればオンラインで販売したりできるのだけど、スタッフがみんな電車通勤なので、毎日通勤させるのが心配で止めてしまいました。
蘭ちゃんの言う通り、決断することはとても大変です。考えて決められることと、考えてもわかりようがないことがあり、今回は圧倒的に後者なので、特に大変だと感じるよね。
一度決めてしまえば楽になるかというと、そんなことはなくて、次から次へと決めることが出てきます。仕事が止まってしまって、でも生活のためには休むわけにもいかず、何かやらないといけないというとき、わたしはやはり「そもそも」の人らしく、「そもそも、仕事ってなんなんだ」と考えてしまいます。さすがに我ながらめんどくさい。いいから何かやれって思う。
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「ところでサクちゃん、「考えすぎ」だってよく言われませんでしたか」と前回質問があったけど、
ええ、もちろん、言われていました。もちろんですとも。
「考えすぎだよ」言われるときは、だいたい「複雑に考えないでもっとシンプルに考えなよ」などと言われるのがお決まりですが、「シンプルなものにたどり着くために、絡んだものを解いて捨てないといけないのにな」といつも思っていました。
その複雑さは、たしかに素直ではないかもしれません。前回からの話の通り、わたしは素直ではなかったので、あらゆることを疑って考えるクセがありました。
「こうするべきだ」というルールや「こういうものだよね」という考えを「なんでかな?」「ほんとにそうなのかな?」と疑うことで、他人の視野をそのまま自分に取り入れずに、一旦崩してから自分に見えたものだけを信じていたのだと思います。(「ほんとにそれで委員会」を自称しています)
そのクセは今でも残っていますが、歳を重ねて「反逆体制」がなくなって、疑う力が想像力に変換できるようになったので、今では「素直じゃなさ」が残した財産になっていると思えます。(つまり「ほんとにそれで委員会」は健在です。蘭ちゃんも入る?)
蘭ちゃんは、わからないものを考えて「小さく分解して手に入れたい」「でもそれを壊したくもなる」と書いていました。
わたしの場合は「わかりたい」という気持ちで考え続けて、その先でわかったら、いとも簡単にポイと捨てます。たどり着いたものを見て「へえ、これか〜」とわかったら、それで満足します。同じように複雑に考える過程は同じでも、わたしは「手に入れたい」と思っていないかもしれない。
これを自分では「把握癖がある」というふうに思っていて、「把握したい」という気持ちがつよくて、把握さえできると、それが自分にとってどんなに不利でも、状況は変わらなくても、ひとまず安心します。
それが理由かどうかはわからないけれど、わたしは「唯ぼんやりとした不安」を感じることはほとんどありません。
昔から、ひとつひとつの不安や不満を「なぜだろう」「原因はどこにあるんだろう」と把握しようとしてきました。だから、自分の不安の原因をある程度把握しています。ただ、把握したからといってなくならないし、蘭ちゃんと同じように基本的には降伏しています。
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うまく伝わるかわからないのだけど、わたしが何かを把握しようとするとき、作業でいうと2種類あって、
ひとつは、タマネギの皮を剥いて、身を一枚一枚剥がしながら確認して、何があるのか確かめるような作業です。大きなものを小さく分解して把握するイメージで、ひとつひとつにピントを合わせて確認していきます。「仕事とは?」とか「友達とは?」などと考えるときの作業がそれです。
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