次郎八に勘当され、しかし慌てる色もなく甲田屋を出た次郎長は人気のない林に至り、そうして日暮れを待った。
やがて辺りが暗くなる。次郎長が林を出て向かった先は果たして甲田屋であった。
えええええっ。じゃあ、なんですか、次郎長は、
「やっぱりおいらが悪かった。許してくだされ、親爺どん」
と言って両の手をついて次郎八に詫びを入れ、勘当を解いて貰うつもりなのだろうか。
いやさ、そうではなかった。
次郎長は誰にも見られぬように邸内に忍び込み、そうして裏庭に回った。
あたりはもはや暗く、既に雨戸がたててある。裏庭には青白く月明かりが差している。その月明かりに照らされて、庭の一角に桃の木があるのが見える。次郎長はその根方に蹲ると、なんらの道具も用いず、素手でその根方を掘り始めた。掘ること数寸、土の中から包みがあらわれる。
「へっ、これ、これ」
とニヤッと笑った次郎長、これを開いてみるなれば、燦然と光を放つ小判一百両《いっぴゃくりょう》、これを懐にねじ込むと、颯っ、と木戸をくぐって裏に出ると、そのまま何処かへ突っ走ってった。
これはいったいどういうことなのか。
そう、次郎長は、最初に東奔する際、
「場合によっては追っ手を差し向けられ、連れ戻されるかも知れない。そうなったときのために百両を割いて埋めておき、もし、連れ戻されなかったときは持ち出した三百五十両を元手にして、江戸で身を立てる。連れ戻された場合は、隠匿した百両を掘り出して凌ぐ」
と考えたのである。
つまりうまくいかなかったときのための保険を掛けておいたということで、周到で用心深い次郎長の性格が窺い知れる。
家の金を盗んで出奔するというのは人生における大博打、一か八かの賭け、である。
そうした大きな賭をする場合、未熟な者は勝ったときのことばかり考え、負けたときのことを考えない。そして多くの場合は負けて、すべてを失う。
と言うとまるでアホのようだが、宝くじを買ったとき、新しい家を見にいったとき、女に惚れたとき、同じように失敗する可能性については考えない、というか、その素晴らしさに幻惑されてネガティヴな部分が見えなくなる。
つまり誰でもそうした失敗をする。そしてそうした失敗を重ねることによって、失敗から学び、次第に賢くなり、用心深くなり、最後には依怙地で偏屈な老人となって、周囲に嫌われる。
というのはマアいいとして、とにかく、人は将来について根拠のない希望を抱いて、失敗したときのことを考えない。
ところが次郎長はそれを考えていた。
無闇に度胸がいい一方で、次郎長にはこうした周到な一面があった。
ここで、「ええいっ、一か八かだっ」と後先考えず、破れかぶれになっているようでは、後年の大親分次郎長はないのである。
ということで連れ戻され、金を回収されたときに備えて予め埋めておいた百両を懐に清水を出た次郎長は取りあえず駿府に向かい、甲田屋と付き合いのない、適当な茶屋旅籠の前に立った。装《なり》が装だから、ごく悪い部屋に通される。部屋まで案内をして来た無愛想な女中に次郎長は言った。
「ねぇやん。わっしがこんな恰好してるから、この野郎、どこのどいつだ、と思ってるだろう」
「そんなこと思ってません」
「隠すねぇ、こんな恰好していきなりやってきたんだ。思うのがあたりめぇだ。いいってことよ。さ、ねぇやん、こらおまえに心付けだ。万事宜しく頼むぜ」
と過分な心付けを握らせる。
「まあ、これはこれは仰山に」
と驚いて女中が下がり、入れ替わりに番頭が飛んできて、「たったいまいい部屋が空きましてございます」と見晴らしのよい部屋に通される。四方山話をして番頭が下がり、さっきとは打って変わって愛想のいい女中に一両を渡し、
「ねぇやん、これをな……」
と言った。
そうしたところ、みなまで聞かないで女中、
「これはまたたくさんにありがとう存じます」とこれを袂にしまいかける、次郎長慌てて、
「おっそろく欲のふけぇ女だな。そうじゃねぇ、それはおまはんに遣るんじゃねぇ」
「あ、そうですか。じゃあ、どうすればいいんですか」
「急に切り口上だな。その金でな、明日の朝までに俺が着るような着物、身丈見計らって袷一枚、襦袢、角帯、手拭一本、紙を一帖、すまねぇ、これで揃えて着てくんねぇ。釣りがあったらねぇやん、とっといてくんねぇ」
「あ、そうですか。かしこまりました」
と、女中にたのんでおいて、ひとっ風呂浴びたら飯を食い、それからその晩は寝て、翌朝は着物が届いているからこれに着替え、堅気の商人の装になって次郎長は浜松に向かった。
なぜ浜松に向かったのか。
浜松餃子かなにかを食べたかったのか。
そうではなかった。次郎長には目算があった。というのは。
昨夜、同宿のある男からある話を聞き、次郎長は浜松に向かったのである。隣の間で宿の女中相手に酒を飲んでいたその男は、昼間見かけたところ、ちょっと油断のならない、目つきの鋭い男であったが、次郎長は妙にその男が気にかかってならなかった。
なんとなれば、その男の面立ちがどことなく福太郎に似ていたからである。
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