皆それぞれ生きている意味がある」 |百折不撓(七) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。


 淡い光を放つ有明行灯に照らされ、煙管から上がる煙が妖しくたゆたう。その煙の向こうに、体を拭く藤花の姿が見えた。

「ここは変わらないな」

「何がさ」

「すべてだよ」

 すでに九つ半(午前一時頃)を過ぎたと思うが、外はいまだ賑やかだ。外国人らしき意味不明の言葉や女郎の嬌声に交じり、三味線を爪弾く音も聞こえる。

 —長崎に来ることも、これからはさほどあるまい。

 大隈にとって長崎は、第二の故郷と言ってもいい地だ。長崎で出会った人々の顔が浮かぶ。岩崎弥太郎、フルベッキ、大浦慶、坂本龍馬らと出会えたのは、長崎あってのことだった。

 —そして藤花、か。

 確かに器量がよいわけではないし、惚れてもいない。たまたま出会い、流れに身を任せるようにして贔屓にしているだけの女だ。でも、それだからこそ愛しくもなる。

 大隈は立ち上がると、鏡台の前で化粧を直す藤花を背後から抱いた。

「突然、どうしたんだい」

 藤花が戸惑ったような笑みを浮かべる。

「なぜか、こうしてみたくなったのさ」

 藤花も何か感じたのだろう。黙って大隈のなすがままになっている。

 安っぽい白粉の香りの下に、日向の下で長く干した蒲団のような匂いがする。

「どこの生まれだったっけ」

「あんたには、まだ言ってないよ」

「そうか。じゃ、教えてくれ」

「松浦の内陸の志佐川沿いの村さ」

「行ったことはないな」

「そりゃそうだろうよ。田んぼしかないところだからね」

 藤花が自嘲する。

「どんなところだ」

「美しい彼岸花が咲く村だよ」

 それ以上のことを聞くのを、大隈はためらった。それだけで、故郷に対する藤花の万感の思いが伝わってきたからだ。

「もう、来ないんだね」

 その問いに大隈は何も答えず、藤花の胸の上に回した腕の力を強めた。

「そうか。もう来ないんだ」

 大隈が藤花の耳元で囁く。

「すまない」

「ううん、いいの。その方が—」

 藤花が一拍置くと言った。

「いつ来るか分からない人を待つより、気が楽だからね」

 —そうか。女郎には待つことしかできないんだな。

 大隈は年季が明けない限り、全く自由のない女郎に同情した。

「そうか。その言葉を忘れない」

「私なんかの言葉を、忘れないでいてくれるのかい」

「ああ」

「私なんか、誰も見向きもしない道端の雑草だよ」

「そうじゃない」

 大隈は藤花の肩を持つと、向き直させた。

「この世に値打ちのない人間なんざいないんだ。皆それぞれ生きている意味がある」

「だって私なんか—」

「お前さんの仕事は関係ない。例えば、お前さんの笑顔がどれほど多くの男を元気づけてきたか。ここに来れば、お前さんの笑顔に会える。それだけで男たちは、普段の仕事を少しだけ頑張れるんだ」

「そういうものなのかい」

「そうさ。わしもそうだったからな」

 藤花が恥ずかしそうな笑みを浮かべる。

「その言葉、とてもうれしいよ」

 大隈が優しく藤花を抱くと、感極まったのか、藤花は耳元で嗚咽を漏らした。

「私も毎日辛いんだ。でも、いつか年季は明ける。その時、故郷へと帰る時のことを思って、明日も頑張る」

「そうだな。それがいい」

 大隈は優しく藤花を放すと、「では、行く」と言って立ち上がった。

「明日の朝までいればいいじゃないか」

「いや、いったん宿舎の部屋に戻り、一人になって考えたいことがあるんだ。わしの連れには、『明日の朝五つ(午前八時頃)、福岡藩邸の前で待つ』と伝えてくれ」

「分かったよ」

「じゃあな」

 大隈はいつものように右手を軽く挙げ、藤花の部屋を後にした。背後から聞こえるすすり泣きが、いつまでも耳奥にこびり付いていた。


 翌朝、福岡藩邸の前で佇んでいると、林が小走りになってやってきた。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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