とくに君らの大好きな西郷などは、その典型だ」|百折不撓(四)1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。


 大隈がパークスとやり合っている間も、時代は刻一刻と動いていた。

 旧幕臣たちが慶喜警固の目的で編成した彰義隊が上野山に屯集し、新政府軍との間に緊張が高まっていた。また榎本武揚率いる旧幕府海軍も品川沖に停泊し、不気味な沈黙を続けている。さらに大鳥圭介率いる伝習隊、土方歳三率いる新選組、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊など、降伏をよしとしない者たちが北関東から東北へと向かい、新政府との対決の姿勢を強めていた。

 東北でも会津藩の救済を求め、仙台藩や米沢藩が手を組み始めており、この動きが奥羽越列藩同盟の結成へと進んでいく。

 この頃、大隈は外国人との交渉のうまさを買われ、大坂に仮に置かれた新政府から、横須賀造船所の借金返済用に二十五万両(現在価値で約五十億円)を預けられていた。

 横須賀造船所は、旧幕府がフランスから金を借りて途中まで建設したもので、この借金を返さないとフランスに造船所を差し押さえられてしまう。つまり植民地化の足掛かりを与えてしまうという重大なものだった。これを持って大隈が江戸に出向くと、長州の大村益次郎から、軍事費の不足によって上野山にいる彰義隊を攻撃できないと知らされた。

 このままでは一触即発の危機が続くと思った大隈も、独断でその費用を渡した。さらに副島と大木に周旋してもらい、外国官副知事(外務副大臣格)の鍋島直大率いる佐賀藩軍とアームストロング砲を大村の指揮下に編入させた。佐賀藩軍に功を取らせようとしたのだ。

 大隈らの配慮によって軍備が整えられた大村は五月十五日、上野山攻撃を断行する。彰義隊はさしたる抵抗も示せず、一日で上野山は落ちた。アームストロング砲の威力は絶大で、砲撃が始まるや、彰義隊は逃走を始めるほどだった。

 この時、江戸府判事の座に就いていた江藤も尽力し、昼夜兼行で大坂に向かい、三条や岩倉に二十五万両の転用を認めさせた。もちろん事後承諾である。

 これにより江戸の戦雲は去り、旧幕勢力との戦いは北関東から東北地方へと移っていく。

 佐賀藩軍も北関東から会津へと転戦し、軍功を挙げていく。とくに雄物川の戦いで無敗の庄内藩軍と一カ月に及ぶ激戦を展開し、東北戊辰戦争にその名を刻んだ。

 慶応四年九月二十二日、東北戊辰戦争は会津藩の降伏によって終結する。これにより残る抵抗勢力は、蝦夷地に逃れた榎本艦隊だけになる。

 東北戊辰戦争に勝利を収めた新政府だったが、横須賀造船所の借金問題は残ったままだった。

 大隈は共に当件の処理を任された外国官判事(政務官格)の小松帯刀と寺島宗則(共に薩摩藩出身)と協議し、外国の銀行に借金するしかないという結論に至った。ところがフランスの銀行はフランス政府の意向を受けているので話を持っていけない。唯一、協力してくれそうな国は、フランスに日本の権益を渡すことをよしとしないイギリスの銀行だけだ。ところが日本政府には、イギリスの銀行に伝手もコネもない。そこで大隈は一計を案じた。


 横浜にあるイギリス公使館は、東禅寺事件や御殿山の焼き討ち事件によって危険を感じたイギリス人の要望で、見晴らしのよい丘の上に建てられていた。

 すでに来訪を伝えてあったので、イギリス人の門衛たちは、大隈が武器を隠し持っていないか入念に確かめた上で、中に通してくれた。

 タイル張りの応接室には燦々と日が差し、心地よい雰囲気が漂っていた。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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