三
時は少しさかのぼるが、大隈が長崎で悪戦苦闘していた頃、佐賀藩は戊辰戦争前後の大きな渦に巻き込まれていた。
慶応三年(一八六七)十二月二十六日、副島は大坂を目指して佐賀を後にした。同月九日に王政復古の政変が起こったことを受けて、その後の情報収集のために閑叟が送り込んだのだ。
旧幕府軍の軍事力は強大で、軍事衝突となった場合、薩長中心の新政府軍が勝てる見込みはないというのが、佐賀藩士の共通認識だった。
ところが事態は、佐賀藩士たちの予想を嘲笑うかのように進んでいく。
副島が大坂に到着する寸前の慶応四年(一八六八)一月早々、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府側が圧勝した。藩主直大を奉じて上洛の途次だった佐賀藩軍は、この戦いに加わらなかったものの、この結果を目の当たりにし、新政府側に付くことで一致した。
この決定は、直大に先行して上洛していた江藤と副島の間で下され、直大には報告だけが行われた。本国の閑叟にお伺いを立てないと動けない重臣たちでは、時勢の急激な変化に付いていけないからだ。こうした機を見るに敏なところが江藤の真骨頂だが、閑叟から信頼されていたからこそできたことだった。
江藤と副島の二人は三条実美、岩倉具視、大久保利通らと立て続けに面談し、佐賀藩の立場を明確にした。これにより江藤は佐賀藩の代表者となり、東征大総督府軍監に任命された。これに勇躍した江藤は早速、物乞いに変装して江戸に向かった。何よりも情報収集が大切だと分かっていたのだ。
鳥羽・伏見の戦いに参加できなかった佐賀藩としては、その出遅れを取り戻すためにも江藤の活躍に期待するしかない。江藤は三月八日に江戸に着き、八面六臂の活躍を始める。
一方の副島は、続いてやってきた大木と共に参与に任命され、議定に就任した閑叟の上洛を待ち受けることになる。
新政府としては、佐賀藩の軍事力なくして今後の旧幕軍との戦いに勝ち抜ける自信はなく、閑叟や直大はもとより佐賀藩士に対しても、最上級の待遇を用意していた。
二月二十日、閑叟は八百二十四人の佐賀藩兵を率いて佐賀を後にし、二月末頃、大坂に到着した。
この時、あまりに速い時勢の転換に、閑叟でさえ付いていけなかったという逸話がある。
大坂に着いた閑叟がこれまで通り、副島を呼び捨てにして手足のように使おうとすると、副島は遠慮がちに「拙者はもはや朝臣でござる」と言って主命を拒否したのだ。これには閑叟も啞然とし、何も言い返せなかったという。
一方、直大は北陸道先方を命じられ、軍艦奉行の島義勇も佐賀海軍を率いて従軍することになった。新政府軍は江戸攻撃を決定し、東海道・東山道・北陸道に分かれて江戸を目指すことになる。
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