次の客、マキさんの指定は彼女の自宅だった。久住は「何かあったらすぐに連絡くださいね。いざという時は車ですっ飛んでいくんで、任せてください!」という。それでも新宿駅を出て私鉄に乗り換え、都心から一駅離れるごとに不安は募った。のどかな住宅地が電車の窓枠のなかに繰り広げられるのを、目だけで追う。この先の家のうち、どれかが今日の仕事場なのだ。大きな揺れに身を委ねながら、何駅かすぎると指定された駅に到着。降りてみれば何のことはない普通の住宅地で、メインの商店街の通りから小道に入れば道端で小さい子供がキャッチボールをしている。目的の家を目指して夕陽の射すうららかな小道を歩いていると、何をしに来たのか一瞬わからなくなった。スマホのGPSが指す場所は、曲がりくねった先にある一軒家と思しき住宅。到着してみるとそこはどう見ても普通の自宅で、縁側に干してある洗濯物が入口からちらりと見える。入らないことには始まらない、ひとまず玄関先のインターフォンを押した。ややあって、つながった音。
「はーい」
「本日予約頂いたみつです」
「あ、ちょっとお待ちください」
ガチャガチャと人の気配が近づいたあと、扉がガラリと開かれる。顔を出したのは、小柄な女性だった。ちらりと上目遣いの顔には化粧気がなく、横にまとめられた茶髪の根本にはうっすらと黒髪が生え始めている。シンプルなパウダーブルーのカットソー、ボトムは動きやすくチノパン。40歳くらいかな。少しだけハスキーな声がいう。「お待ちしていました。どうぞ」
頭を下げつつ玄関に上がらせてもらう。家の広さからいって子供がいてもおかしくないと思ったが、子供靴は見当たらず、その代わりに脇には男性物の革靴があった。その存在感に、一瞬目を留めてしまう。マキさんは片づけるのが苦手なのか、廊下に入ると至るところに物が置かれていて、踏まないように歩かなくてはいけない。キッチンに続くリビングに通されると、どこからともなく何かのノベルティらしきクッションが出てくる。そこに座われということらしい。正座で待機していると、あらかじめ入れておいてくれた麦茶をキッチンから持ってきてくれた。薄くて癖がある、他人の家のお茶の味。
マキさんもわたしに用意されたものとは、全然違うデザインのクッションを下にしく。座るやいなや、ガバリと頭を下げられる。「今日は、来ていただいてありがとうございます。遠かったんじゃないですか」慌てて深くお辞儀してしまう。「いえ、大丈夫です。こちらこそご自宅にお招きいただきありがとうございます」マキさんはそのさまを上からじっと見た後、静かに言った。「始める前に、聞いてほしい話があります」。キッチンに鎮座している大型冷蔵庫が低くうなり始める。
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