あの頃の「なんかちがう」は正解だった
成人の日に、自分の成人式の日のことを思い出してみようとしたのだけど、その日に何があって誰と会ったのか、不思議なほど覚えていないので驚いた。ただ、その頃いつも抱えていた「なんかちがう」という感覚だけは覚えている。
20歳当時はまだ学生(専門学校の2年生)で、その年の4月にパティスリーに就職が決まっていた。そのお店でアルバイトをしながら、就職したら朝から晩まで長時間働いて月給14万円、休みは月に4日、怖いおとなの怖い社会、少ないお金と少ない睡眠時間、つらい仕事とつらい人間関係が待っていると怯えていた。
つらいとわかっていながらなぜその仕事を選んだのか、他にいくらでもあるだろうと今なら思うけど、当時は、仕事はつらいのが当たり前で、イヤなことをするからお金をもらえるのだと思い込んでいたのだった。
さらに、その前の年に父が脳梗塞で倒れて入院していたので、この先の自分には、乗り越えるべき壁と、ガマンする茨の道が待っているのだと身構えていたし、楽しむことをすでに諦めていた気がする。
自分は人とちがってつよくならないといけない。自分は人とちがって楽しいことをしてはいけない。自分は人とちがってガマンしなければいけない。本気でそう思っていた20歳の自分のことを、今、ほんとうによくがんばったなと思うと同時に、なんて傲慢なんだろうと思う。
自分だけ特別で他の人とはちがうのだという考えは、自分以外の人を軽く見ている。もっというとバカにしているのと同じだ。
かといって、当時の自分に「おとなは楽しいよ」と、どれだけ言っても到底信じられないだろうとも思う。自分は例外だと信じ込んでいるので、将来を楽しみにすることはないし、実際「期待しない」を選ぶほうが楽だった。困難の最中(さなか)にいながらまだ見ぬ将来の自分に期待をするのは、なかなかむずかしい。
では、20歳のわたしはどうすればよかったんだろうと振り返っても、「現在がつらい」という感情を「そんなのはつらくないよ」と否定することはどうしてもできない。見ないふりをしないで目の前の状況を受け入れて、やさぐれないで仕事や看病や人間関係をひとつずつちゃんとやることを勧めることしかできない。
その後数年間、「なんかちがう」という感覚は消えなかったし、自分の居場所はここではないどこかで、抜け出すには自分が何か行動しないといけないと思い続けていた。でも、何をすればいいのかはまったくわからなくて、ただただ「なんかちがう」を抱えていた。
ここではないどこかを夢見るなんて青くさいけれど、その「なんかちがう」は正しかったと今でも思う。怖い社会もつらい仕事も「なんかちがう」で正解だ。
その感覚から目をそらさず「では何をしたらいいか」「ではどうしたいか」と考え続けたから抜け出せた。それは、ある日突然何かが変わるのではなくて、こつこつ仕事をしてできることを増やし、ひとつひとつ信頼を得、じわじわ視野を広げて、おもしろい人に会えそうな場所に足を運んだ結果、気がつけば抜け出していた。
20歳のわたしに言えることは、やっぱり目の前のできることをちゃんとやる以外の道はないし、「なんかちがう」ならたぶん「そこじゃない」。そして、その答えは、自分の中を探してもなくて、行動した先で誰かが見つけてくれる。だからその日まですすめ、いいからすすめ。疲れたら休んで、またすすめ、と言いたい。
不満は財産、不安は鍵
会社員時代、わたしはおせっかいで解決魔なのと、在籍期間が長く年下のスタッフばかりだったのとで、社内で保健室のおば……おねえさん(20代だったし!)のような役割だった。
「何かあったらこの人に言えばいい」と頼ってくれるのは、うれしい半面、気がつくとどんどん仕事が増えているという問題もあり、「解決してあげたいけどキリがないな」という感じだった。
キリがないので、その対策として、相談に来たスタッフが「聞いてくださいよ」と話し始め、なんとなく何の話なのかわかった頃に、わたしはいつもいったん話を止めて「それは、グチ?」と質問をした。案の定キョトンとされるので、続けてこう説明する。