なんでこんなことになったんだろう。
解雇宣告されてからここずっと、都内の自宅アパートに居ながら、頭の中はそればかりだった。通達の日からあと1週間は社員として働ける猶予があったが、発熱を理由に自宅休養に切り替えていた。朝と夜、医者に言われた薬を飲み、あとはベッドで一日中寝ているだけ。かれこれ3週間はこんな生活をしている。会社をやめて数日は、同期や友人からわたしを気遣うメールが来ていたが、今はもうそれすらない。何だかバカバカしくなって、スマホも見なくなった。寝すぎたあまり、いつもの定位置で体を丸めると床ずれの痛みに襲われて、思わず寝返りをうって独り言ちる。
なんで、なんでよ。
きっと神奈川の自宅に帰れば母も父も、答えてくれるだろう。なんでって、病気になったんだからしょうがないよね。諦めて、適当に好きなことして生きればいいんじゃない?で、この後どうするの?まずこっちに戻れば?ひとり暮らしのお金は出せないからね-。頭の中の両親に、わたしは抗議する。好きなことって何?適当にやるって何?あんなに型に嵌められることを窮屈に感じていたのに、その実、敷かれたレールを外れてまでやりたいことなんてなかった。わたしは気づいてしまった。自分はただ、人に求められたことをしていただけだったんだ。
ねえ、これからどうしたらいいの、見捨てないでよと想像の中で追いすがっても、イメージの中の誰もがぼんやりと遠ざかっていくだけだった。「頑張ってね」「まだ若いんだから大丈夫」「大変だよね」と表面だけ撫でるような言葉を残して、優しく手を振りほどいて消えていく。あんなにたくさん知り合いも友人もいたのに、助けてと言える相手がいなかったことも、ただただ惨めだった。後悔、悲しみ、自責、怒り、疎外感、焦り、また後悔。感情はあちこちで焦点が結ばれ、次の感情や記憶に結びつき、でたらめな星座を描く。そうしているうちに感覚が鈍化し、何も考えることができなくなってしまう。
休養中、わたしは一つの発見をした。病気になると人は二つの時間を体験する。つまり退屈と焦燥だ。病人なんだから休まなきゃ、と思えば時間は無限にあるように感じられ、どう退屈をやり過ごそうかと考えるようになる。でも、何かの制限の中の休養なら話は別だ。期限内に不調を治さなくてはと思えば、途端に激しい焦燥感に襲われる。実際、こうしてこの部屋で安穏と寝ていられるリミットは迫っていた。電気料金とガス使用料の支払い催促通知が郵便受けに溜まり始めている。今月と来月分の家賃のことを考えると、目の前が真っ暗になる。いつもの矛盾と思考のループだ。生きていきたいけれど、その可能性は刻々と削られていく。
ここのところ慢性的に死について考えてしまう。わたしの体は惰性でも、このまま生き続けたいと告げていた。しかし、現実の状況がそれを許さない。生きていくには意思だけでは不十分でまずお金、そのためには仕事。しかし、働けるだけの健康はどこにもなかった。解雇されてからは、みるみる全ての調子が狂っている。不眠、過剰睡眠、激しい焦燥感、落ち着きのなさ、感覚の鈍磨、そしてうつ気分。もう一度やり直そうという意思が頭の中に生じてきても、今度は生き延びるための手段がないことに気づいてしまう。大卒という学歴は不健康の前には無意味で、新卒の頃はわたしが会社を選ぶのだと意気込んでいたのに、今はもう選択肢すらなかった。そしてそこまでくると、もはや生きたいという気持ち自体も疑わしくなってくる。本当に生きたいのだろうか?何のために?守るべきものなんてあるの?そんな風にわたしの自意識に睨まれた生は、一歩また一歩と力なく後退してしまう。この思考の行き着く先は、もちろん自殺だ。
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