「井沢さん」
ハッと身を起こす。気が付いたら、またデスクで意識を失ってしまっていた。慌てて顔をあげると先輩がこちらを見下ろしていた。「ねえ、疲れてるんじゃない? 次の研修資料、コピーしておいたから置いておくね」彼は明らかにわたしを蔑むような目つきをしている。入社当時のわたしには一目おいてくれていたのに。
「すみません、ありがとうございます」。だめだ、またやってしまった。わたしは急いで立ち上がり、資料をつかんで会議室まで足早に持っていく。後ろ手に先輩たちの笑い声がする。どうしよう、どうしよう。
焦ったわたしは会社の産業医に助けを求めた。その医者は会社と提携した病院に勤務していて、駆け込んできたわたしの話を親身に聞いてくれた。「夜落ち着かなくて眠れないんです。なのに職場では急に意識がなくなってしまう。どうしたらいいんでしょうか?」。症状は睡眠不足と昼間の眠気、さらに感覚の鈍化だった。職場でも家でもすべてが遠く感じられて、現実だと思えない状態になることもあった。どろりとした時間の中で不意に動けなくなる。切羽詰まったからか、そういった症状が実は子どもの頃にもあったことまでうっかり話してしまう。解決策をくださいと懇願するわたしを横目に、症状をさらさらとカルテに書き込んだあと、産業医は手を止めて言った。
「井沢さん、これはちょっと、ちゃんと病院に行かなくてはいけないと思いますね。ここでは診断と病名の宣告はできないので、病院で診てもらいましょう」
とりあえず診断書をもらってきてと言った、彼女の目つきを不思議と覚えている。産業医として親切な振る舞いをしていたときにはあった何かが失われていた。薄いガラスのような透明な視線。そのとたん、この安全圏だと思っていた医務室は、寒々しい見知らぬ場所になっていた。
*
翌日、わたしは病院の待合室にいた。患者用のソファの後ろ側の壁に頭を預ける。そろそろ梅雨に入ろうかという時期でも白いモルタル製の壁はひやりとしていて、ヒートアップした頭に心地よい。カバンのなかに入っている、もらったばかりの診断書のことが頭によぎった。医者の声がリフレインする。
「でも、わたしはずっとそうだったんです!」
「はい、うん、ですからそれは全部精神的な病気なんですよ」医者はさもこういう状況には慣れっこだとでもいうようにいっそぞんざいに淡々と告げた。患者から受け取った感情を受け止めない、やり返さない。軽くそっと払うみたいに扱う。銀縁メガネの向こう側の目が不思議そうにこちらを見ている。どういう風にいえば、君は納得してくれるんだろうね?
「外出がやめられないのも、人とずっと話していられるのも、あまり寝なくて大丈夫なのも、性格が陽気だとか調子がいいとかそういうことじゃないんです。れっきとした病気の症状です。問題は睡眠だけじゃない。行動のすべてに症状は現われているんだと僕は思いますね」
書き留めていたわたしのカルテに目を落とす。先生の斜めに書き殴ったような読みづらい文字で書き留められたそれは、本当にわたしのことなんだろうか。こうして客観的にまとめられると、他人の身に起きた出来事みたいだ。
「あと、いまも起きているみたいなんですけど、子どものころから不定期的に感じていたという、体感に実感が伴わなくなってしまう感じや、現実感が失われてしまう、ぼんやりするときがあるというこれは、単に眠くてだるいのではなく解離性障害という病気だと考えられます。正直なところ、双極性障害の傾向もみられるのでどちらなのか、ちょっと現状では判断ができません。ただ、今の段階では……」
それ以降のことはよく覚えていない。ぼんやりした頭に医者の言葉が無意味にこだまする。残響がすべて通り抜けていって、わたしの手元には診断書と処方箋だけが残った。床がぬるくぐらついて足元が滑ってしまう。なんとかしなきゃ、なんとか自分で立て直さなくては。体をあちこちにぶつけながらなんとか家まで戻り、震える手で産業医宛てに診断書を送る。重すぎる診断内容が書かれたそれは、ポストに投函したときにはあまりに軽かった。
数日間寝込み、ようやく出社して溜まりに溜まったメールを処理していると、後ろから呼ばれた。見ると、先輩社員と人事部長が連れ立っている。「井沢さん、ちょっといいですか?」わたしはすぐに立ち上がって、何も聞かずそっと二人の後をついて行く。促されて入った会議室で着席すると、人事部長は開口一番に言った。「今日、お呼びしたのは他でもありません。井沢さんには1週間後の6月末付けで、この会社を退職してもらいます」
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