坂本君が斬られた」 |疾風怒濤(十七) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

十七


 大政奉還の秘策を土佐藩に奪われ、しばし落胆した大隈だったが、すぐに次の目標に向かって歩み始めた。「蕃学稽古所」こと後の致遠館の創設である。

 大隈の使命の一つには長崎での英語学校の創設があり、幕末の混乱の最中に、それがようやく実現したことになる。フルベッキを主任教諭に雇い入れた大隈は、副島を学監(舎長)に据え、執法(教師)五人に、生徒三十人という陣容で講義を始めた。

 生徒の中には大庭雪斎の息子の権之助、後に江藤新平の片腕となる香月経五郎や山中一郎、美登の弟で後に煙草商人として財を成す江副廉蔵、さらに薩摩藩の前田正名(明治政府の殖産興業の立役者)、肥後藩の加屋霽堅(神風連の乱の首謀者)、加賀藩の高峰譲吉らがいた。この時、十二歳の高峰は後にタカジアスターゼやアドレナリンを製薬化することで、巨万の富を築くことになる。

 また後に岩倉具視も息子二人を、勝海舟も息子の小鹿を入学させた。また生徒ではないが、薩摩藩の小松帯刀や土佐藩の後藤象二郎も、ちょくちょく顔を出すことになる。多少のわだかまりはあったものの、大隈は後藤と良好な人間関係を築いていく。

「蕃学稽古所」の教場には、長崎五島町にある藩邸の一つ、通称「諫早屋敷」があてられた。

 佐賀藩は三十五万七千石の大領を有していたが、蓮池・小城・鹿島の三支藩、鍋島四庶流家、龍造寺四分家といった自治領があるため、本家の実質的な石高は六万石程度だった。だが支藩も分家も実質的には家臣なので、領国の行き来は自由だった。

 諫早屋敷は諫早氏に姓を改めた龍造寺家の家臣の屋敷で、長崎港に近い位置にあったため、長崎御番を務める佐賀藩の拠点となっていた。大隈たちは、それを借り受けたのだ。


 慶応三年(一八六七)十二月、教壇に立った大隈は、生徒たちに英語を教えていた。

「構文ではこうなる。分かったか」

「分かりました」という声が、ばらばらと聞こえる。

「では、今日の講義はこれまでとする。新参の者は、明日までにグラマー全文を書き写しておくように」

 早速、不平の声が上がる。

「無理だと思うと何事も成し遂げられない。無理を道理にすることで道は開ける」

「分からん理屈だなあ」という声も上がったが、生徒たちは納得し、この日の講義は終わった。

 廊下に出ると、ちょうど副島が歩いてきた。その顔は冴えない。

「副島さん、どうかしましたか」

「まあな。ちょっと来い」

 副島と一緒に諫早屋敷の庭に出ると、真冬にもかかわらず日が差していて暖かい。諫早屋敷は高台にあるため、二人は眺めのいい場所まで行き、西に広がる長崎湾を見下ろしながら会話を始めた。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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コメント

maito0405 命を賭けてでも、と意気込んでみても、やはり間近に迫ると恐怖を実感する。改めて大隈の脱藩、一歩間違えれば、だった・・・ 6ヶ月前 replyretweetfavorite