十五
ほとんど無罪に等しい謹慎処分を下された大隈は、意気揚々と自宅に戻った。
表口で「帰ったぞ」と言うと、廊下を走ってきた熊子が笑顔で飛びついてきた。
下男の爺も喜んで足を洗ってくれた。
「いい子だ、いい子だ」
熊子を抱き上げて居間に入ると、美登が正座して待っていた。
「お帰りなさいませ」
「今、帰った。いやー、疲れた。飯にしてくれんか」
「処分はどうなったのですか」
「とくにお咎めなしだ。謹慎ということだが、江藤さんのように自由に動けそうだ」
この後、すぐに二人は謹慎を解かれ、長崎に向かうことになる。
「それはよろしかったですね」
いつになくよそよそしい美登の態度に、ようやく大隈も、美登が怒っていると覚った。
だが大隈は遊んでいたわけではない。憤然として言い返した。
「何か言いたいことでもあるのか」
「とくにありません」
「そんなことはあるまい。何かあれば忌憚なく言ってくれ」
「では——」と言うと、美登の態度が改まった。
それを察した大隈は、膝の上に載せていた熊子に「外で爺と遊んでいろ」と言って背を押した。
熊子がいなくなり、美登の顔つきはさらに厳しいものになった。
「これまで我慢に我慢を重ねてきましたが、もはや我慢も限界です」
「ちょっと待て。どういうことだ」
「どうもこうもありません。あなた様は妻子眷属のことを考えず、勝手気ままに生きています」
「勝手気ままと言われても困る。藩のため、お国のためによかれと思ってやっている」
「私に何のお話もなく脱藩したということは、もしも逃げ回ることができたら、二度とここに帰ってくるつもりはなかったのではありませんか」
「それは——」
大隈が言葉に詰まる。後先のことは一切考えていなかったので、その可能性はなきにしもあらずなのだ。
大隈が苦し紛れに言う。
「副島さんも一緒だ。あれほどのお方が、脱藩せざるを得ないと決断したのだ。それだけ国家が、存亡危急の秋を迎えているのだ」
美登がはらはらと涙をこぼす。
「あなた様はご存じないのかもしれませんが、副島様は奥様に、切々たる情を吐露した書簡を出していました。それで副島様の奥様がいらして、あなた様も一緒に脱藩したと初めて知ったのです。副島様の奥様は、私に『あなたもご存じだと思うけど——』と話し始めたんですよ。最初は何のことだか分からず、私はとんだ恥をかいてしまいました」
——副島さんも人が悪い。
副島は大隈には何も言わずに、妻あてに書簡を書いていたのだ。
手巾で目頭を押さえ、美登は泣いていた。
「あなた様が藩の仕事で危ない目に遭うのならまだしも、私に何も言わず脱藩するとは、どういうことですか。下手をすると扶持米を止められ、私と熊、そしてあなた様のお母様は、路頭に迷うところだったんですよ」
大隈は謝るべきだと思った。
「それはすまなかった。だが国事に奔走する者は、家族など顧みてはいられないのだ」
「だからといって、何の相談もなく勝手をなされては、妻としての立場がありません。これからも、あなた様が何を仕出かすか分からないと思いつつ暮らすのですか」
「そうは申しておらん。世の中が変われば、わしは勝手なことなどしない」
「それはいつなのですか」
「いつと聞かれても、何とも答えようがない」
「いつまで待っても世の中が変わらなければ、また脱藩なさるのですか」
「二度もやったら、さすがに寛容なご隠居様も許してはくれまい」
「では、もうなさらないと思ってよろしいのですね」
大隈がきまり悪そうに答える。
「ああ、脱藩はしない」
「約束していただけますか」
——とは言ってもな。
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