第1話】ロマンスが嫌いな編集者

大人の女性に極上の恋愛を届け続けるハーレクイン社から、大人の女性のための 新官能ジャンル“エロティカ”が初めて刊行されました。これを記念してcakesでも、“エロティカ”から9月15日に発売された小説『セイレーンの涙――見えない愛につながれて』の一部をお届けします。物語の主人公は扇情的なエロティカ(官能小説)作家として知られるノーラ。年上の恋人と過去にSM関係にあり、現在も「女王様」として街に君臨するノーラは、読者を喜ばせるエロティカではなく、自分のための私的な小説を書くことを決意します。敏腕編集者との衝突、同居中の男子大学生との関係の変化、そして昔の恋人との再会を経ながら、ノーラが描く小説の結末は……。cakesでは前半200ページを特別公開していきます。

 ロンドンの霧などというものは存在しない。かつてあったためしもない。伝説のロンドンの霧は伝説にすぎない。現実には、ロンドンの霧はスモッグであり、産業革命の最盛期には、街を窒息させて多くの命を奪った。ザック・イーストンは、出版社〈ロイヤル・ハウス・パブリッシング〉のオフィスで、自分が“ロンドンの霧”と呼ばれているのを知っていた。彼の気難しさが気に入らない同僚編集者がつけた、蔑みのニックネームだ。ザックは自分のニックネームにも、それをつけた編集者にも愛情はなかった。だが今日は、ぜひとも自分のあだ名どおりの人間になりたかった。
 ザックが予想したとおり、ロイヤル社の編集主幹ジョン=ポール・ボナーは、就業時間が過ぎてもまだせっせと働いていた。J・Pはオフィスの床に座り、紙でできたミニチュアのストーンヘンジのように、原稿の山をまわりに積み上げている。
 ザックはJ・Pのオフィスの入り口で足を止め、ドア枠に寄りかかった。上司である編集長を何も言わずに見下ろす。なぜ自分がここに来たか言う必要はない。ふたりとも理由はわかっていた。

「死—イーストンという名の霧に乗って死が私に訪れる」

 J・Pは積まれた本をより分けながら言った。

「詩的な死に方だ。君は私を殺しに来たんだろう」

 灰色の顎ひげを生やし、眼鏡をかけた六十四歳のJ・Pは、文学の権化だ。ザックはふだんなら彼と言葉遊びを楽しむが、今日はそんな気分ではなかった。

「そうです」

「“そうです”?」

 J・Pは返した。

「それだけか? まあ、簡潔こそ機知の神髄だ。老いぼれが立ち上がるから手を貸してくれ。死にゆくなら自分の足で立って死にたい」

 ザックはため息をつくと、オフィスに入って手を差し出し、J・Pを立たせてやった。J・Pはザックの肩を叩いて感謝を示し、デスクの椅子にどすんと腰を下ろした。

「どのみち私は死人だ。あの『ハムレット』のゲラがどうしても見つからない。だが、“幸福とは肉体の健康と物覚えの悪さ”と言うではないか。私はじつに幸せな男だよ」

 ザックは愛嬌たっぷりのJ・Pに内心で悪態をついた。上司への好意のせいで、この会話がますます楽しくないものになる。ザックは書棚に近づき、棚のいちばん上に手を滑らせた。自分でも手が届かないところに重要な書類をしまっておく上司の習慣を、ザックは知っていた。くだんの原稿を見つけ、J・Pのデスクに放って、舞い上がる埃を見つめた。

「ありがたい」

 J・Pは咳きこみながら胸に手を当てた。

「君は命の恩人だ」

「今度はあなたの命を奪う人間になります」

 J・Pはザックを見て、デスクに向かい合った椅子を指さした。ザックはしぶしぶ腰を下ろし、鎧で身を守るようにグレイのコートを前で引き合わせた。

「イーストン、あのな」

 J・Pが切り出したが、ザックは即座に阻んだ。

「ノーラ・サザリン?」

 その名前に精いっぱいの嫌悪をこめる。

「ご冗談を」

「そう、ノーラ・サザリンだ。ずっと考えていた。販売予測を見たんだが、うちは彼女を獲得するべきだと思うんだよ。君に担当を頼みたい」

「ないですね。あれはポルノですよ」

「ポルノではないぞ」

 J・Pは眼鏡の上からザックを見つめた。

「官能小説だ。それもきわめて上質の」

「そんなものが存在するとは知りませんでしたよ」

 J・Pは音をたてて息を吐き、椅子の背に寄りかかった。

「イーストン、君の実績は知っている。君は業界で最も優れた才能の持ち主だ。そうでなければ、私は大枚はたいて君をこのニューヨークに引っぱってくることはなかった。そう、君の担当した作家はブッカー賞を取っている」

「それにウィットブレッド賞、シルバー・ダガー賞受賞者もいます—」

「そしてサザリンの最新作は、君のウィットブレッドとシルバー・ダガーを足したより多く売れている。ちなみにいまは景気が後退中でね。本は贅沢品なんだ。食えないものは誰も急いで買わない」

「で、ノーラ・サザリンが解決法だとおっしゃるんですか?」

 ザックは挑戦的に言った。

 J・Pはにやりとした。

「『タイムズ』紙のジェイニー・バークは彼女の最新作を“大いに食指が動く”と評した」

 ザックは首を振り、うんざりして天井を見上げた。

「彼女は低俗な淫売作家ですよ」

 ザックは言った。

「頭の中も、書いた本も、卑猥に満ちている。彼女の本を出した出版社が淫売宿にあっても僕は驚きませんね」

「彼女はきわめて優れた作家だ。一冊読んでみろ。そうすればわかる」

「僕はここで仕事をするためにイギリスを離れました」

 ザックは言った。

「ヨーロッパで最も評価の高い出版社を辞めたのは、優秀な若いアメリカの作家と仕事をしたかったからです」

「彼女は若いよ。アメリカ人だし」

「僕はこんな作品のためにイギリスと自分の人生と……」

 ザックは“妻”と言う前に口をつぐんだ。そもそも、最初に離れていったのは妻のほうだ。

「今回の本には真の潜在力がある。彼女がそれをうちに持ってきたのは、変化を遂げようという覚悟があるからだ」

「僕は六週間後にロサンゼルスへ行きます。何もかも放り出して、最後の六週間をノーラ・サザリンにくれてやれとおっしゃるんですか。無理ですね」

「ここで残った半端仕事を片づけながらサザリンと仕事をすればいい。単に君にその気がないだけなのはお互いわかっているんだから、時間がないとは言うな」

「僕には時間もないし、エロティカの編集をする気もありません。たとえ上質なエロティカでも。ここには僕以外にも編集者がいるじゃないですか。トーマス・フィンリーにやらせればいい」

 ザックはいちばんそりの合わない同僚の名前を出した。ザックにあのニックネームをつけた同僚だ。

「でなければアンジー・クラークとか」

「フィンリー? あの弱っちいやつを? きっとサザリンに言い寄って生きたまま食われるぞ。あいつはパンチを浴びても正しい鼻血の出し方を知らないに違いない」

 ザックは危うく笑いそうになったが、J・Pとは喧嘩中だということを思い出した。

「だったら、アンジー・クラークは?」

「彼女はいま手が空いていない。それに……クラークはサザリンを怖がってる」

「それは無理もない」

 ザックは言った。

「噂では、彼女は最初の本の契約を寝て取ったとか」

「私もその噂は聞いたことがある。だが、この本は枕営業したわけじゃないぞ。残念だがね」

 J・Pはにやりと笑った。

「レイチェル・ベルのブログで読みましたが、ノーラ・サザリンは赤以外の服では一歩も家を出ないそうですよ。十六歳の少年を個人秘書として働かせているとか」

 J・Pはにっこりした。

「彼女は“個人秘書”より“実習生”と呼ばれるほうが好きだろうな」

 ザックはいらだちで窒息しそうになった。すでにコートまで着て帰ろうとしていたときに、頭の中で悪魔の声が、もう一度仕事用のメールをチェックしろとささやいたのだった。はたしてJ・Pからメールが届いていた。いわく、エロティカ作家のノーラ・サザリンを獲得して、秋冬のリリースで彼女の最新刊を出そうと考えている。そして、ザックは六週間後にロサンゼルスへ行くまで手持ちの仕事がないから……。

「私のためにやってもらいたい。君以外にいないんだ」

 J・Pが言った。

「どうして僕だけなんですか?」

「私の部下で彼女に太刀打ちできる人間は君だけだ。イーストン……いやザック、頼むから聞き分けてくれ」

 ザックはごくりとつばをのんだ。ジョン=ポール・ボナーが人をファーストネームで呼ぶなんてめったにない。

「彼女が書くのはロマンス小説です」

 ザックは静かに言った。

「僕はロマンスは嫌いなもので」

 J・Pは共感をこめてザックの目を見た。

「君がこの一年つらい気持ちに耐えてきたのは知っている。私もグレースに会ったことがあるからな。だがサザリンは……いい作家だ。うちには彼女が必要なんだ」

 ザックはゆっくりと深く息をついた。

「彼女はもう契約書にサインをしたんですか?」

「いや。まだ条件をつめているところだ」

「口頭での合意は?」

 J・Pは警戒の目でザックを見た。

「まだだ。詳細を検討してから返事をすると言ってあるが。なんで訊く?」

「僕が彼女と話しましょう」

「いいスタートだ」

「そして、僕が原稿を読みます。まともなものができそうだと思えば、最後の六週間を彼女に捧げましょう。しかし、僕が承認するまで印刷にはまわしません」

 J・Pの目がザックをうがつ。ザックはまばたきもせず、目をそらすこともしなかった。自分が手がけた本にはいつも最後の発言権を持つことにしている。その権限を放棄する気はない。

「契約は僕自身にやらせてください。でなければ彼女とは会いません」

 J・Pは椅子に寄りかかり、音をたてて鼻から息を吐き出した。

「いいだろう。彼女のことはすべて君にまかせる。彼女はコネチカットのこぎれいな家に住んでいる。列車で行ってもいいし、私の車を使ってもいい。私はかまわん。月曜日は家にいると言っていた」

「それでけっこうです」

 おそらく心配はいらないだろう。ザックは作品の欠点については容赦をしない。偉大な作家はその批判を受け入れる。三文文士はそれを扱いきれない。サザリンにそれなりにきつく当たれば、彼女はほかの編集者をせがむだろう。
 ザックはだるそうに立ち上がり、ドアへ向かった。
 オフィスを出る前に、小さな咳で呼び止められた。J・Pは目を合わせず、目の前の『ハムレット』読本の最初のページに手を滑らせている。

「サザリンはハムレット並みの狂気にとらわれているだけだ。彼女に関して耳に入ってきたことはどれも信じるな。あのレディは人並みの判断力を持っている」

「レディですって?」

 J・Pはその侮辱に反応せず、本を閉じた。ザックは背を向けて再び帰ろうとした。

「あのな、イーストン、君はまだ若い。それにかなりの男前だ。そのうち試してみるべきだよ」

「何をです? 狂気を?」

 ザックは言い、頭を軽く振って本を指し示した。

「いいや。幸福をだ」

「幸福?」

 ザックはつい苦笑いをした。

「そうするには僕は記憶力がよすぎるようです」

 ザックは自分のオフィスに戻った。アシスタントのメアリーが、ノーラ・サザリンの原稿を、ファイルフォルダーとともにデスクの上に置いてくれていた。
 ザックはファイルをめくり、サザリンの経歴書に目をやった。三十三歳。ザックより十歳ほど若い。最初の著書が出たのは二十九歳のとき。それ以来五冊の著書を出している。『レッド』というタイトルの二冊目は、小さな旋風を生んだ—そしてかなりの売り上げと、たくさんの噂も。ザックはファイルの中の数字を見て、なぜJ・Pが熱心に彼女を獲得したがるのかわかった。彼女の本が出るたびに、売り上げは前回の本のほぼ倍となっていた。エロティカは最近の出版界で唯一成長している市場だ。しかし、金の問題であるべきではない。芸術の問題であるべきなのだ。

 ザックはサザリンの経歴書と販売予測をごみ箱に投げこんだ。肝心なのは作品であるというザックの編集理念は“新批評”からちょうだいしたものだ。著者ではなく、市場でもなく、読者でもない。作品を判断する材料はその作品のみ。ノーラ・サザリンの私生活が、彼女の書く文章と同じように情熱的であるという噂など、気にするべきではないのだ。肝心なのは彼女の作品だ。そして、それに対するザックの期待は高くなかった。

 ザックは疑いの目で原稿を調べた。メアリーは彼が紙で原稿を読むのが好きなことを知っている。だがこれをプリントアウトするのはかなり楽しかったに違いない。緋色のカバーに毒々しいゴシック体のタイトルが浮かび上がる—『残念賞』。編集者はほぼ必ず本のタイトルを変えるものだが、これはエロティカ作品にしては興味深い選択であると認めざるをえない。ザックは原稿を開き、第一文を読んだ。“僕はこの物語を書きたくない。おまえがこれを読みたくないのと同じように”
 ザックは読むのをふとやめた。何か古くて懐かしいものの影が、肩越しにささやくのを感じたのだ。その感覚を払いのけ、その行をもう一度読んだ。そして次の行を、また次の行を……。

ノーラの愛のゆくえは、文庫版『セイレーンの涙—見えない愛につながれて』でお見届けください!

"エロティカ"が送る刺激的作品『セイレーンの涙—見えない愛につながれて』の気になる内容は、cakesで連載中! 続きが気になるあなたは文庫版もどうぞ。


セイレーンの涙—見えない愛につながれて(MIRA文庫)

ケイクス

この連載について

セイレーンの涙—見えない愛につながれて

ティファニー・ライス

大人の女性に極上の恋愛を届け続けるハーレクイン社から、刺激的な新レーベル“エロティカ”が初めて刊行されました。これを記念してcakesでも、“エロティカ”から9月15日に発売された小説『セイレーンの涙――見えない愛につながれて』の一部...もっと読む

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hidekih そっか、女性向けのポルノはやりは米国だけじゃないんだな。しかもSMっぽいのがよいと。「S&M 101」だな。 http://t.co/K81CV4g7AA / “【第1話】ロマンスが嫌いな編集者| 4年以上前 replyretweetfavorite

Gravity_Heaven わが友が訳したロマンスが一部無料でお読みいただけます→【第1話】ロマンスが嫌いな編集者| 4年以上前 replyretweetfavorite

sakucherryna 岩井志麻子さんの記事と合わせて、どうぞ! 【第1話】ロマンスが嫌いな編集者 https://t.co/4P2RFTOZAm” 4年以上前 replyretweetfavorite