初めましてとわたしが言おうとすると、すかさずリョウが口を挟む。「ケイ、えりには気をつけなよ。こんな澄ました顔して昼間は会社員やってるけど、夜はすげえから。この前なんて、クラブの始まりから終わりまでずっといて、始発までファミレス行ってまた飲んで、しまいには『まだ眠くないもん、もっと遊ぼうよ』なんて言うんだからな。ほんと、大した女だよ。この界隈に毎晩、マジでいるから捕まんないようにしなよ」
わたしは笑って抗議した。「ちょっと、初対面の人にそんなこと吹き込むのやめてよ! 昼は普通にやってますから」実際、うまくやってるんだし。ケイと呼ばれた女の子は、クールな見た目に反して歯を見せて笑っている。ふと、わたしは彼女に聞いた。「お仕事は普段、何されてるんですか?」ケイさんはちょっと取り澄ました顔になって言った。「職業はお人形、です」わたしは俄然、彼女に興味を持った。今日はこの人と話したい。
夜の世界では、驚かない、そして深くは立ち入らないのが基本だ。でもドライってわけじゃない、ルールさえ守ればすぐに親密になれる。その気軽さがとてもよかった。会って初めましてで相手の反応を探りながら、空気を掠め取るみたいにして距離を縮めていく。感情には重力があってそれが人の反応に現れる。喜びとか親しみ、期待のときはその抵抗が早くて、ちょっと空気が跳ねるみたいになる。その逆に不快感や疑惑、悪意があるときには人は遅くなる。そんな反応を感じ取ってしまったら、ちょっとよくわかんないなってニッコリして、離れてしまえばいい。話しあえる相手は他にいくらでもいるんだから、次、次、次。
この街の行きつけのどこかに飛び込めば、必ず誰かしら顔見知りがいて、いつも新しい人を紹介してもらえる。気になる人なら自分から話しかけたっていい。夜の東京には、途方もないお金持ちもフリーターも、普通の会社員も何かの事情を抱えた人も、みんな等しく集まってくる。毎日新しい驚きに満ち溢れていて、そのたびにわたしは圧倒されていた。
「えりちゃん、友達を紹介するよ」「ねえ、面白い子がいるんだけど」。新しい人に出会うたび、わたしの頭はフル回転した。会話はたくさんの情報と反応の渦だ。こちらの応答次第で、次々と色が変わり新しいものが飛び出す。音楽にのるときみたいに他人が揺れるとわたしも揺れる。徐々に会話のテンポが速くなっていって、わたしとわたしの外側の差異が溶けてなくなり、すべてがハイスピードで駆け抜けていく。わたしはいつもそれを楽しむのに夢中だった。目で、耳で、肌で、わたしは全身で飛び込んで世界を味わい尽くす。
人間は麻薬で、わたしを魅了して酔わせてやまない。そして、いつでもひどく恋しかった。夜遊びするようになったのは大学生のころからで、人とのコミュニケーションが得意で好奇心旺盛、お酒にもめっぽう強いわたしが、ハマらない理由はなかった。日中は真面目に大学に行きアルバイトをしっかりこなし、それが終われば毎日どこかに出かけて行く。翌日は体に鞭打って、また大学とバイトに励む、その繰り返し。
社会人になってからも、毎晩朝まで遊び歩くその習慣は全く変わらなかった。いや、変えられなかった。昼は仕事で忙しいし、新入社員としてのわたしには〝賢くて気の利く素直な新人〟としての役割が与えられている。会社では大人しくしているのが正解、あるべき型に嵌めるのが正解。目に見えない負担とストレス、長時間労働のために軋んだ体じゃ昇華することができないエネルギーを、ぶつける先がいる。休んでなんていられない、だって一人でいればつまらない未来がこの先ずっと続いていくことに、嫌でも思い至ってしまうから。わたしには語るにも値しない物語しかないことに、気づいてしまう。だから、今が一番大切で、今をとびきり楽しませてくれるものが必要だった。
あるときのこと。わたしはとあるナイトパーティーに参加していた。クラブの奥まったソファに腰掛けてモヒートを啜る。会場には色々な形の真っ白な風船が用意されていて、隙間に置かれたホワイトランプの光を優しく照らしていた。自分の足元に目をやると、入社記念に買ったばかりの黒いエナメルパンプスが光る。すべては完璧で、上々だ。
「井沢さんさあ、仕事大丈夫なの?」
「えー、どうして?」
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