私は新刊のプロモーションで2月26日から3月11日まで帰国する予定で、昨年のうちからそれを励みにして仕事に専念していた。ところが、本来なら日本で楽しんでいたはずの時期に、アメリカのボストン郊外にある自宅で「ほぼ自主的隔離」をしている。たまに食料品を買い出しにでかけるのと早朝の森のジョギング以外は外に出ず、夫以外の家族にも会っていない。
2020年の新年には、2ヶ月後にこんな生活を送っているとは想像もしていなかった。きっとみんなそうだろう。
アメリカでも事態は急変した
医学雑誌『ランセット』によると、中国で原因不明のウィルス性肺炎が報告され始めたのは2019年12月のことだ。それが新型コロナウィルス感染症(COVID-19)として報告されたのは今年2020年1月のことだった。
この時点では、SNSでかなりの人が「インフルエンザのほうが沢山死んでいるじゃん。おおげさに騒ぎすぎ」と言い、香港でのトイレットペーパーの買い占め騒動を笑っていた。
私は帰国の予定があったので、一般の人よりは注意深く新型コロナウィルスのニュースを追っていたと思う。日本へのフライト中に感染しないように手袋やマスク、消毒剤などもすべてを準備していた。
帰国とトークイベントについて亜紀書房と岩波書店の編集担当者に相談しはじめたのは2月11日のことだった。この時点では、「握手などをしなければ問題はないだろう」という判断で予定をそのまま遂行するつもりだった。ブログにも「どんなに注意しても何が起こるかわからないのが人生です。ですから予定通り帰国して、最後までトークイベントを楽しませていただきます」と書き、「楽観的に生きることは重要ですが、知識にもとづいて正しい予防対策を取るべきだと思っています」とハンドサニタイザーを使い、握手はしない、というルールを提唱した。
ところが数日のうちに欧州でも経路が不明の感染者が報告されるようになり、「状況が改善する前に悪化するだろう」という悪い予感がしてきた。政府を含めて誰も状況を把握していないのに「たいした問題ではない」と断言する根拠はなく、イベントに来る人の安全を保証できないと思った。そこで、悩んだ挙げ句、アメリカを発つ2日前に関係者2人と電話で話し合って帰国中止を決意した。
メディカルスクール卒業から医師として仕事を始める合間の休みにアジア諸国でハネムーンをする予定を立てていた娘夫婦も悩んでいた。しかも、その最中にトランプ大統領が記者会見で渡航制限について見切り発車的な発言までするから、さらに困った。
救急医になる娘は現実主義者なので「まだ感染者が全世界で可視化されていない。これから感染はさらに広まり、ハネムーンに行く3月末から4月の時点では状況がさらに悪化している可能性のほうが高い」と予測し、早めにアジアの旅行を諦めた。そして、「飛行機が飛ばない最悪の事態になったら車で戻ってくることができる」アメリカ国内でのハネムーンに気持ちを切り替えた。
2人が計画したのは、カリフォルニアまで飛行機で飛び、レンタカーでジョシュアツリー国立公園、アリゾナ州全体を旅するというロードトリップだ。そして、ボストンに飛ぶ前にラスベガスでシルク・ドゥ・ソレイユのショーを観るという計画だ。もともとのハネムーン中止で戻ってこないお金もあるので宿泊はAirbnb(エアビーアンドビー)で節約し、最後のラスベガスだけ、バスタブからベラージオの噴水ショーを観ることができるスイートを私たち夫婦がプレゼントすることになった。
だが、この計画も3月半ばには不可能になった。国立公園もラスベガスのカジノもすべて閉鎖されたのだ。ラスベガスの中心街「ラスベガス・ストリップ」が閉じるのは、なんとジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された1963年以来初めてのことだという。
ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺は、アメリカの政治を大きく変えたと言われる。2001年9月11日の同時多発テロは、フライトの規則といった細かいことだけではなく、アメリカ人の信頼感を根こそぎ変え、オープンで人懐っこいのが取り柄だったアメリカ人を懐疑的にした。また、2007年の住宅バブル崩壊とそれに続く2008年のリーマンショックと金融崩壊は世界規模の景気後退を引き起こした。COVID-19も、アメリカと世界を多くの面で根こそぎ変えることだろう。
新しい習慣「ソーシャル・ディスタンス」
アメリカでは、事態は毎日のように激変している。マサチューセッツ州では知事が3月10日に「非常事態宣言」を出し、3月17日にはすべてのレストランとバーが一時閉鎖になり、25人を超える集まりが禁じられた。そして、3月23日にはさらに厳しい「ロックダウン」になった。
カリフォルニア、ニューヨーク、イリノイなどの州でも、マサチューセッツに先立って知事が「ロックダウン」の命令を出している。ロックダウンでは、食料品店や薬局など必需品を売っている店以外はすべて閉店になり、医療従事者や公共設備のメインテナンスをする人など社会が必要とする職業以外の人は自宅待機しなければならない。これは、「接触を減らすことで感染が広まるスピードを遅らせ、医療施設と医療従事者が対応できるキャパシティを越えないようにする」のが目的である。「ロックダウン」の命令が出ていない地域でも、多くの心ある人はすでに自宅待機をしているし、感染者に接触した可能性があればテストをしなくても「自主的隔離(Self-quarantine )」をしている。
「ロックダウン」になり、すべての店を閉じるよう命令が出たマサチューセッツ州。州で最も大きなバーンズ&ノーブル書店の閑散とした駐車場(この撮影中にロックダウンの発表があったので、この時点で私は知らなかった)。
日本語にも訳されているワシントン・ポスト紙のこの記事が自宅待機や自主的な隔離の意義を説明している。
仮想のウイルスに対する感染者数のシミュレーション。縦軸は人数、横軸は時間。グレーが健康な人、オレンジが感染している人、ピンクが回復した人。
公衆衛生の専門家によると、「速度を抑制するためになんらかの手段を講じなければ、COVID-19は何ヶ月にもわたり、急速に感染を拡大していくことになる」。だが「もし人々が人混みを避け、全体的に行動を制限することで、「社会距離戦略」を実行したら」感染速度を抑制することができるというのだ。仮の感染病でのシミュレーションで、左端は、何の対策も取らなかった場合だ。健康な人が急速に感染者になり、そして回復者になっていく。左から2つめは「強制隔離」をするものだが、あまり効果はない。
どうせ全員ピンクの回復者になるなら対策は必要ないと思うかもしれないが、高い確率で死者が出ているCOVID-19の場合にはそうもいかない。感染者が一気に増えると、イタリアのように病院も医療従事者も対応できなくなる。その結果本来なら助かっていた人まで死ぬことになる。
アメリカのいくつかの州が実行している「ロックダウン」は、右端の「社会距離(social distance)を取る戦略なのだ。
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