「自分を知る」とは、「原液」を知ること
「自分を知る」とはどういうことなのか、言い換えると「原液を知ること」だと思っている。ますますわからなくなったかもしれないけど、ちょっと書いておこう。
「原液」というのは、子育てをしているときによく感じていたことで、子供が生まれてからいつも一緒にすごしながら、「自分と深く関係があるけど別の人格であるこの人は、いったいどんな人なんだろう」と不思議に思っていた。
親であるわたしの影響はもちろんあるし、遺伝なのか後天的なのかはっきり分けることはできないけど、できるだけ子供のもともともって生まれたものを知りたい、見たいと思って観察していた。
それは、ほっといたら自然にそうしてしまうこととか、なぜか選ぶものとか、感じ方の傾向とかそういうもので、それを知りたいがあまりに、いつも「好きにして」とか「自分で考えて」などと言っては、彼女がどうしたいのか、何を選ぶのか、何が好きなのかを観察していた。
今思えばちょっと意地悪で厳しくもあるが、へー、そんなふうに感じるんだなとか、これがうれしいんだなとか、これはイヤなんだな、などと「原液」を感じると、彼女がどんな人なのかをひとつひとつ知った気がして、とてもうれしかった。
おとなになるにつれ、親だけでなく友人や学校などいろんな人や環境に影響を受けて、原液の性質に外からの要素が加わって、すこしずつ変わっていく。
同時に、「どうやら自分とはちがうな」という他人を知ると、ないものを羨んだり、努力して何かになろうとしたりもする。
そういう感情やあがきは決してムダではないけれど、せっかくならもって生まれたものをうまく活かしたほうがいいと思う。
たとえば、自分の原液がコーヒーだとしたら、緑茶の人を「自分とはちがうな」と理解しつつ、緑茶になろうとしないほうがいい。ちがうから。
それよりも、コーヒーはミルクと合わせるとマイルドになって新しい味になるとか、冷やしてもおいしいとか、脱臭作用があるらしいとか、自分の持ち味や他の素材との組み合わせを考えたほうがいいと思うのだ。
そのためには、まず自分の原液の特徴を知る必要がある。知らないと、組み合わせが悪いときに、単に「相性が悪い」と思うのではなく、自分を責めて変えようとしたり、相手を責めてコントロールしようとしたりしてしまうから。
自分の原液の特徴を知っている者同士だと、とても話が早い。
僕のコーヒーは苦いけど、君のミルクと組み合わせるとちょうどいいし、ミルクに空気を含ませてふわふわにしたらもっと僕の苦味を包んでくれる。ふわふわになれる君はすごいね!と、お互いの良いところを見つけて引き出し合うことができる。
「自分を知る」ことを「原液を知る」とわざわざ言い換えるのは、「自分を知る」というと、自分に向き合うことだけを想像してしまうからだ。
自分の原液を知るとき、大事なのは誰かに味を見てもらうことだ。
自分のことは自分ではよくわからない。誰かに「君はこんな味だよ」とか「こんな色だよ」と教えてもらう必要がある。そしてそれは、誰に見てもらうかが重要になる。
恋人や夫婦などについて「パートナーは鏡だ」とよく言われるけど、わたしは、これは単に「似ている」とか「レベルが同じ」という意味ではないと思っている。自分の姿は鏡を見ないと見られなくて、ほんとうに自分を知るためには、誰を通して自分を見ればいいのかという意味で「鏡」と言われているのかなと思う。
これは、誰に味見してもらうかというのと同じだ。
原液は人によってちがう。ただ、すこしややこしいのは、味の感じ方も人によってちがうのだ。
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