※これまでのお話は<こちら>から。
認知症の父との暮らし
― 2017年 父65歳 母61歳 私32歳 ―
父は、朝起きてリビングに来るなりそのままソファに寝転がり、テレビを見ている。もとより自分で朝食をつくる習慣はなかったが、近年は、朝起きて『さあ朝ごはんを食べよう』という自発的な意思が感じられなくなってきた。放っておいても食べないので、気が付いた人が世話を焼くしかない。
その日は私も自分の朝食をつくるついでに、父の朝食を用意しはじめた。
「ごはんも炊けてるんだし、朝食くらい自分で用意しなよ。毎日お母さんがやるんじゃ大変でしょ」
と小言を言いながらごはんをよそう。
父はソファに寝転がりながら、不機嫌そうな声で、「うるさいなぁ。自分でもできるよ! 毎日自分でやってるし!」と言い放つ。
急速に私の沸点が上がる。
「はぁ!?」
父は、嘘をついているわけではない。『本当にやっている』、『自分でできる』と思い込んでいる。そもそも昔からやっていないことを、どうして『毎日自分でやってる』と思えるんだ!?というのは不思議なものだが。そうして、朝から一悶着起きるのである。
父には『自分が病気である』という自覚がない。それは認知症の特徴のひとつでもある。ただ、認知症だからこその言動であっても、『自分でできる』と言い張る父には、私はいつも本気で苛立ってしまう。かわりにやっている母を、私を、家族を軽んじていると、どうしても思えてしまうからだ。
私は父の朝食を食卓に投げつけるように置き、「食べてよね」と強調して、自室へ戻った。 数時間後、遅い昼食を食べようと私が再びリビングに戻ると…用意した朝食を食べずにソファに寝転んでいる父がいる。
「あれ、いたの?」
父が数時間前の喧嘩なんて覚えているわけもない。気楽な表情で尋ねる父に、また声を荒げそうになる。
認知症の家族との暮らしは、そういう毎日の繰り返しなのだ。
認知症なのだからしょうがないけど…
認知症の父には病気の自覚がない。加えて家族を悩ませたのは、父が『すぐ忘れてしまう』ということだ。自分のしたことも、していないことも覚えていない。それが家族を振り回すのだった。
父は外に出かけるのが好きだったが、車の運転をやめてから、自力の外出は年々腰が重くなっていた。そんな父を外へ連れ出そうと、母は懸命に誘い出し、週に何回かは外出していた。
父と外出するとなると、母が1から10まで準備をしなければいけない。朝食を食べさせ、薬を飲ませ、気候に合った服装を選んで着替えさせ、外で必要な持ち物をそろえる。駅まで歩くと父の体力をかなり消耗してしまうので、タクシーを手配する。
この間も父は、「タクシーなんていらない、歩いて行ける」などと口出ししてくる。父は一つ一つの行動を、『そんなことは簡単にできる』と思い込んでいるからこそ、先回りして用意しようとする母をおせっかい扱いするのだ。
◇ ◇ ◇
この日は、電車に乗って少し遠くの公園までお花見へ出かけた二人。散歩中も、はぐれる危険性に目を配りながらなんとか予定を達成して、クタクタになって帰宅した。お茶を飲みながら一息つき、母が「今日は楽しかったね」というと、「なんかしたっけ? 今日。」という言葉が返ってくる。
「えっ…? いや…今、お花見行ってきたでしょ…!?」
がっかりと苛立ちが混じった声で母が言う。
感情をコントロールできなそうだった母は父の前を離れて自室へ戻った。そしてちょうど帰宅していた私に、母は疲れ切ったようにぼやいた。
「……しょうがない。認知症なのだからしょうがないんだけど、さ…。本人が忘れていても、そのときが楽しければいいのよね。外出はして体は動かしたんだし。覚えてなくてもしょうがないと思うんだけど、さ…。」
それは愚痴のようでいて、自分に言い聞かせる呪文のようだった。 時間と労力を割いてなんとか『父を外出させる』というミッションはクリアできた。父があと数時間でも、「楽しかったなぁ」と言ってくれたなら、少しは母も苦労した甲斐があったと報われるのに。
母の苦労も、楽しかった時間も、認知症に消されてしまうのだとしたら、いったい誰を責めればいいのだろう。やるせない思いはどうしようもない。 日々、苦労して父を外に連れ出していた母の気力を奪うには十分な仕打ちだ。
父との入浴戦争
認知症の人に起こりがちなことのひとつに『入浴拒否』がある。例にもれず父も入浴を億劫がるようになり、我が家では頻繁に大規模な入浴戦争が起きていた。拒否するだけではなく、そこに『すぐ忘れる』性質が加わるから、いっそうたちが悪いのである。
「ほら、お風呂湧いたよ。入りなよ」
「わかってるって。入るってば」
父はもう、三日はお風呂に入っていない。今日こそは入ってもらわねばという気持ちで心のゴングを鳴らす。
それから10分後、父はまだソファに横たわっている。
「ねえ…だから、お風呂に入りなって」
「うるさいなぁ…! 今入ろうと思ってたのに!」
『中学生かよ!』というツッコミを心にとどめ、目的を果たすためにも、ここは少し堪える。
「お風呂あがったらお茶淹れてあげるよ」と、アメ作戦に出る。するとやたらと速い返事で「ほんと?」と返ってきた。
『おそらく上がる頃には覚えてないだろうな…』
私はしめしめと思いながら、父はとぼとぼとお風呂場に向かった。
40分後、そろそろお風呂も上がった頃だろうとお風呂場を覗くと、なぜか湯船の蓋だけがあいていて、父はいない。すると父は寝室で、パンツ一丁でテレビを見て布団に潜り込んでいるではないか。少しお風呂が冷めていたと思ったのか、追い炊きボタンを押してテレビを見始め、お風呂のことは忘れていたようだ。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。