10代の頃の私の女装を、母親はどう見ていたのか
大好きな女の子のすべてを所有したい、できれば彼女そのものになりたい……そんな願望から、私は16歳のときに女装を始めた。
母親によると、ある日の夕方、駅まで車で迎えに行ったところ私が女の子の恰好をして帰ってきたらしい。家を出るときにはロンTとジーパンだったのに。
「上はファー付き襟で丈短い茶系の可愛いモコモコした服。下はタータンスカート」
30年前の出来事なのに、母親の記憶は鮮明だった。
「これで電車乗ってきたんや、って唖然としたけどな。深くは聞かへんかったわ。なんや楽しそうやったし。世間の目を考えたら若干恥ずかしかったけどな」
おそらく、どこかで着替えてそのまま帰ったのだろう。
その後は家で女装をして、母親に駅まで送ってもらうようになった。
2年近く引きこもっていた息子が外に出るようになって、母親はほっとしたらしい。
ほんま元気になってよかった思たわ、似合ってたし可愛かったで、と後に言われた。
大阪芸術大学に進学して一人暮らしを始めてからも、私は日常的にスカートを履いて電車に乗り、授業を受けていた。大学1年の頃につきあった同級生の女の子も、服を貸してくれるなど協力的だった。
その子を実家に連れていったときにも、私はスカートを履いていた。母親によると、「2人で街を歩いてたら、男の子に声かけられた」と私は嬉しそうに話していたらしい。
通学定期の性別欄に「女」と書いていた大学時代の私
大学時代の友人たちにも、当時の私の女装について訊いてみた。
Sさん「性別不明でおかっぱ頭で座敷わらしみたいな不思議な雰囲気があった」
その頃は自分で髪を切っていて、ビートルズみたいな重めのマッシュにしていた。ビートルズも座敷わらしの一種らしい。
Kくん「あなたと友達のA君で飛田の遊郭街を歩いてると、『女を連れてこんな所を歩くな』と野次られたと言う話を聞いたよ」
Aくんとはいちばん仲が良く、しょっちゅう一緒に遊んでいた。大阪の飛田の遊郭街とは、いわゆる風俗店がひしめきあっているところ。そこの客引きのお姉さんたちにも、女の子に見えていたということだろう。
Aくん「俺が友人としてではなく、異性として学を見ないよう、俺の前では女装しなかったんじゃないか?」
Aくんの意見には声を大にして「違う」と答えておこう。
ついでに妹にも訊いてみた。
妹「お兄ちゃん居酒屋でバイトしてたとき、同じバイトの女子高生から制服を借りたって、嬉しそうにしてたよ」
この件に関してはまったく覚えていない。借りて喜んでいるだけなら、ただの変態だ。
ハッとする指摘をしてくれた友達もいる。
Iさん「私、あまり仙田くんが女装していた記憶がないのよね。仙田くんと英語のクラスで席が近くなった時に、ユニセックスで綺麗な少年がいるなぁ、友達になりたいなぁと思ったのが最初の記憶で、親しくなるにつれて、思ったより男性的で、仙田くん自身が男性的ファルスへのアンビバレントな感情を持っているように見えていた。
だから、仙田くんが女装していたことを後で知って、女性的なものから来るというよりは、ある種、女性や弱者への贖罪のように見えていた気がする。仙田くん自身が父権的なわけではなく、漠然とした何か(誰か)の代わりに罪を背負おうとしているような」
女装をしている私の姿を一番よく見ていたのはRさんだ。
Rさん「私が印象的だったのは、阿倍野駅で長めのスカート履いてる仙田くんに会ったこと。確か通学定期の性別を『女』にしてたんじゃないかな。『なんで?』って聞いたら『面白いかな~と思って』って言ってたよ」
いや、別に面白くないし……。
Rさん「部室の近くの芝生の上で酔っぱらった仙田くんが『野麦峠ー!』って何回も叫んでいて、あのときもスカート履いてたように思います」
たしかに映画『あゝ野麦峠』をその頃に観て、大竹しのぶのファンになった記憶はあるが、叫んだことは覚えていない。
「個人的な自己肯定」と「社会的な自己肯定」の狭間で
好きな女の子と一体化したい、という願望から始めた女装は、その頃には私が私であることの一部になっていた。
一方で私は、何者かになりたいともがいていた。つまり女装はあくまで個人的な領域に属するもので、社会的な営みではないと感じていたのだ。
社会的存在として何者かになる、ということは私にとって、胸のなかにあるモヤモヤしたものを外にだして形にすることを意味していた。
15歳の頃からマンガを描き続け、大学に入ると映画のシナリオを書いたり、劇団を作って芝居の公演をしたりした。だが大学2年目頃になると、さまざまな限界が見えてきた。自分の創るものが面白いと思えなくなったのだ。
表現することは自分には向いていないのかもしれない……そう考えた私は、マンガも映画も芝居もやめてしまった。
途端に、大きな絶望感と孤独感に襲われた。自分はこのまま何にもなれないのではないか、と思うと、誰かに責められているかのような罪悪感でいっぱいになった。
芸大生の友達は、映画、音楽、演劇など、それぞれの分野で楽しそうに制作を続けているように見えたことも、孤独感を強めた。
社会的に認められると「女装したい」という願望は減っていった
私はアルコールに溺れるようになった。
部屋にこもって1日じゅう酒を飲み、しだいに大学にも行かなくなった。
数ヶ月後には体を壊して入院し、アルコール依存症と診断された。そこから2年間ほど、病院と自助グループに通って治療に専念した。芸大は中退した。
日常生活がようやく送れるようになると、関西大学のフランス文学部に3年次編入学をした。表現することに向いていないのなら、他人の表現を研究しようと思ったのだ。
卒業後には、研究を続けるために、東京に引っ越して学習院大学の大学院に進学した。
西武百貨店池袋本店の「池袋コミュニティ・カレッジ」で週4日アルバイトをしながら、フランス語の文学作品や研究書をひたすら読んでは論文を書く準備をする。
そんな日々を何年か送るうちに、「表現したい」という欲求がまた湧いてくるようになった。
もう一度だけ挑戦して、それでもダメなら今度こそ諦めよう、と私は小説を書くことにした。
3ヶ月ほどかけて「中国の拷問」というタイトルの中篇小説を書きあげ、文芸誌「早稲田文学」の新人賞に応募したところ、受賞することができた。
私は27歳になっていた。12年ほどかかってやっと、「表現することを通して社会と繋がりたい」という願望を叶えることができたのだ。
小説家としてデビューしてからは、文芸誌を中心に小説やエッセイを発表できるようになった。大きな賞を受賞することはなかったが、執筆の依頼が途切れることはなく、20年近く書き続けている。
アルコールに溺れ、表現したいという欲求にどう折りあいをつけようかともがき続けた挙句に、ようやく何者かになることができたと思えた。
そのようにして、社会的な存在として自分を肯定できるようになりたい、といういわば社会的な願望がある程度満たされると、女の子そのものになりたい、という個人的な願望は薄れてしまった。
20代前半以降やめていた女装を再び始めたのは、子どもが生まれてからだった。
女装姿の自分とセックスをしたい
元妻と出会ったのは32歳のときで、その頃路上ナンパにハマっていた私が新宿駅西口で声をかけたのがきっかけだった。その日は12月26日で、元妻は大きな花束を抱えて歩いていて、「その花どしたん?」と尋ねると、花屋で働いていて、クリスマスの売り物の残ったのをもらって帰っているところだ、と答えたのを覚えている。
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