女装姿の筆者
親になることが不安だった。
自分には背負いきれないほどの、重荷を背負わなければならなくなるような気がしていた。立派な大人でなければ、子育てなんてできないんじゃないかと。
それは、たとえば楽器を何も弾けない人がいきなりステージに立たされて、ピアノの演奏をさせられるようなものではないか。知識も経験もないことに挑戦しなければならず、失敗は許されない。まるで悪い夢でも見ているかのような、不安でいっぱいだった。
子どもが生まれて7年が経つが、私が立派な人間になった気配はない。
いちかばちかでステージでピアノを弾くようにして、無我夢中で日々を過ごしてきた。
子育てのやり方を、私たちはどこで習うのだろう?
意識的にせよ無意識的にせよ、まず参考にするのは自分が親からどう育てられたか、ではないだろうか。親との関係が良好で、大切に育てられたと思っていれば、自分の子どもにも同じように接したくなるだろう。そうでなければ、親にしてもらったこととは逆のことをしたくなるのではないか。私の場合は後者だった。
「大人ってこんなもんなんや」 価値観の違う両親に苦しめられた子ども時代
私は父親とずっと折り合いが悪かった。
高度経済成長期に若い頃を過ごしたいわゆる団塊の世代の父親からは、「いい大学に入っていい会社に就職し、裕福な暮らしができれば幸せ」という価値観を子どもの頃に植えつけられた。
その価値観に疑問を抱きだしたのは中学生の頃。中学受験をして入った進学校に、2年生の終わり頃から行かなくなった。当時の言葉でいうと「登校拒否」だ。
数日後、母親がいなくなった。仕事から帰ってきた父親に聞くと、母親は体調を崩してしばらく入院することになった、と返ってきた。どこの病院にいるの、と重ねて聞くと、「それは言えない。お前がまた学校に行ったらお母さん帰ってくる」と父親は答えた。
社会の不条理、みたいなものに初めて直面した瞬間だった。
子どもなりの、無力感に襲われた。
翌日、嫌々学校に行った。家に帰ると母親が帰っていた。「大人ってこんなもんなんや」と思った。
「女装」と「小説」——親の価値観から逃げ出す
いまとなっては、両親は私を大切に育てようとしてくれていたと思える。特に経済面では不自由を感じたことがなかった。
だが、「心から愛されている」と実感したこともなかった。
父親の持つ価値観とは違う価値観を見つけなければ、という焦りに振り回されていたのはそのせいだと思う。自分なりの価値観を見つけて、それを父親に認めてほしくて仕方がなかったのだろう。
女装を趣味にしたのも、そのためだった。
もともと女の子に間違われることの多かった私は、レディースの服を着て街歩きを楽しんだり大学に通ったりし始めた。
女装という、父親の価値観にはないものを楽しめている自分のことが好きだったし、誰かに「可愛い」と言われるたびに、自分には人に肯定されたり、愛されたりする価値がある、と思いこもうとした。
だが、漠然とした焦りは消えなかった。
その焦りがおさまったのは、27歳のときに文芸誌の新人賞を受賞して、小説家としてデビューしてからだ。
ようやく、自分なりの価値観を見つけることができた、しかもそれを通して社会と繋がることができた……私は大きな安心感に包まれた。
だが、それは愛されている、という感覚とはまた別のものだった。
穴の開いたバケツが、子どもから受け取る愛情で埋まった
さらに10年ほどが経ち、37歳のときに初めての子どもが生まれた。
出産に立ち会い、生まれたばかりの子どもを抱っこしたときに、「なんて可愛いんだろう」と驚いた。子どもがいる男性の友達何人かから、「男性は女性に比べて親としての実感を持てるようになるまでに時間がかかる」、「歩いたり喋ったりできるようになってようやく可愛いと思えるようになってきた」と聞いていたが、私は生まれた瞬間から可愛いと思った。
それまで穴の開いたバケツのように、何を入れても埋まらなかった気持ちが埋まったようだった。というより、穴は開いたままなのに、バケツの容量を遥かに超える大きなエネルギーの波のようなものが流れこんでくるので、空になっている暇がないとでもいうべきか。
言い換えればそれは「愛されている」という実感だった。
子どもは親のことを無条件に、全力で愛してくれる。
その愛に触れているうちに、私は気がついた。
子どもが生まれるまで「心から愛されている」と実感したことのなかった私は、自分のことを好きではないまま生きてきたのだと。
むしろ、嫌いで嫌いでたまらなかった。親になることが不安だったのもそのせいだったのかもしれない。
親になることは、そうした不安とは全く関係がなかった。
立派な人間でなくても親になれるし、特に知識や経験が必要なわけでもなかった。
愛を与えてくれるからこそ、こちらからも惜しみなく愛を与えることができる。
そんな循環に図らずも巻きこまれてしまうことが、私にとって「親になる」ということだった。
女装癖を持つ小説家でもあるシングルファザーとして
さらに親になって5年後に、私は離婚した。
単なる親から「ひとり親」、もしくは「シングルファザー」に変わったのだ。
3組にひと組が離婚すると言われている昨今においても、まだまだシングル家庭は充分に社会的な認知をされているとはいい難い、いわばマイノリティな存在だ。
なかでもシングルファザーの数は、シングルマザーの約10分の1とされている。
さらに女装癖があって小説家でもあるシングルファザーとなると、日本人では私くらいしかいないかもしれない。マイノリティのなかのマイノリティだ。
そんな私だからこそ、まだまだ母親中心、女性中心の子育ての現場で日々を送っているうちに、夫婦で子育てしていたときや、子どもがいなかった頃には見えていなかったことが見えてくるようになった。
この連載では、女装癖のあるシングルファザーが7歳と5歳の娘を育てながら遭遇したさまざまな出来事や、それについて考えたことを書いていきたい。
次回は、子育てと女装の関係を掘り下げてみる。(続く)
(協力:アップルシード・エージェンシー)