十
慶応二年(一八六六)六月から始まった第二次長州征伐は、幕府にとって無残な結果に終わった。長州藩側が四境戦争と呼ぶこの戦いは、幕府方の諸藩軍が四つの部隊に分かれて長州藩領に攻め込もうとしたが、すでに薩摩経由で最新の武備を整えていた長州藩軍は、各地で幕府軍を撃破し、付け込む隙を与えなかった。
そんな最中の七月、将軍家茂が逝去する。事実上の総司令官である一橋慶喜は、これを口実に第二次征長を中止し、諸藩軍は長州藩領から撤退を開始した。事実上の幕府軍の敗戦である。
これは初代家康以来、武によって諸侯を従えてきた徳川家の権威を失墜させるものであり、幕府の土台が崩れ始める端緒でもあった。
家茂の急死により将軍職は空位になり、周囲を見回しても、慶喜以外に将軍を務められる者はいなかった。
だが慶喜は、すぐに将軍職に就かなかった。というのも慶喜は衆望の盛り上がりによって将軍位に就き、強力な専制体制を布こうとしていたからだ。しかし老中連中から形ばかりに要望されただけで、外様諸侯どころか、親藩や譜代の諸侯からも要請はない。
かつては賢侯たちがこぞって将軍に推した慶喜だったが、京都政界で「変説漢(変節ではない)」「二心殿」などと陰口を叩かれるようになり、人望と信用を失いつつあったのだ。
しかも薩摩藩を中心とした外様諸侯が中心になり、「これを機に将軍職そのものを廃し、雄藩諸侯の合議制に移行しよう」という声が上がり始めため、急いで将軍位に就くことにした。
この難局を切り抜けていくのは、もちろん容易ではない。だが慶喜には、孝明天皇の信頼という強力な切り札があった。すなわち困ったことがあれば、孝明天皇から勅書を出してもらい、諸侯を従わせる腹積もりでいたのだ。
慶応二年十二月、満を持して慶喜が十五代将軍に就任する。
ところがその二十日後、肝心の孝明天皇が急死してしまう。これにより慶喜は後ろ盾を失うことになる。天皇の死因は急性痘瘡(天然痘)だというが、いまだ三十六歳で壮健だったこともあり、京雀の間では毒殺説もささやかれていた。