それが幕末の現実だった。いかにも徳川家の威令はいまだ浸透している。過去に多くの大名たちが改易や減封に遭ってきたことを思えば当然だろう。だが改易や減封が盛んに行われた時期は、軍事力に大きな差があり、罰を受けた藩は抵抗すらできなかった。ところが今、佐賀藩には最新の兵器がある。例えば、徳川家の先鋒を務めるのが慣例となっている彦根藩が本気で佐賀藩に掛かっても、青銅砲が主力の彦根藩と、鉄製砲が主力の佐賀藩とでは射程に差があるため、勝敗は歴然だ。おそらく彦根藩は、戦う前に壊滅的な打撃をこうむることになる。
となれば彦根藩でさえ戦うことに二の足を踏み、逆に調停に乗り出すかもしれないのだ。
「そなたは——」
閑叟が再び湯につかりながら言う。
「わしを賭場に引き出し、全財産を張れと言うのだな」
「そうです」
副島の「よせ」という叱声が聞こえたが、大隈は意に介さない。
「しかも負けが込んで、身ぐるみがされようとしている長州を救うためにだ」
「そうです」
「さすがに諸藩が全力で掛かってくれば、われらだって負けるぞ」
「その時は薩摩が動きます」
「その保証はない」
「動かなければ、次にやられるのは己だと、彼奴らは分かっています」
薩摩が一会桑勢力のみならず、幕府とも距離を置き始めており、それを幕府が快く思っていないのは明らかだった。仮に長州や佐賀が滅べば、再び強大な力を握った幕府の鋭鋒が薩摩に向けられるのは歴然だった。
「しかし」と大隈は強調する。
「賭場は閉まりかかっています」
閑叟の顔色が少し動く。
「そうか。いつまでも賭場は開いているわけがないのだな」
「はい。一番鶏が鳴く頃には賭場も閉まります。その時、全財産を持って駆けつけても賭場は受け付けてくれません」
「つまり、アームストロング砲を賭場に張れないことになると言いたいのだな」
「いかにも!」
大隈が大声で言ったので、副島と大木の二人が身を引いた。気づくと大隈と二人の間には、微妙な距離ができている。
「わしはアームストロング砲を抱えて、賭場の前で立ち往生するわけか」
「そうです。おそらく幕府は裸で賭場から追い出され、賭場の中にいるのは薩長だけになります。そして最後は、ご老公のアームストロング砲も、薩長の作った新たな政府に取り上げられることでしょう」
「そうか。賭けをせずに持っていかれるというわけか」
「いかにも。それは薩長も同じでしょう。しかし彼奴らは砲を取られる代わりに、政府を牛耳ることができます。つまり——」
「われらには、新政府への人材登用の道が閉ざされると言いたいのだな」
「はい。新政府ができた時、われらは薩長の下働きをやらされます」
「わしが彼奴らの下座で這いつくばるのか」
閑叟の脳裏には、島津久光や毛利敬親の姿が浮かんでいるはずだ。
——ご老公、下手をすると、それどころではありませんぞ。
一段高い上座に座すのが、西郷隆盛や木戸孝允かもしれないのだ。欧米の政治制度を知る大隈にとって、それは目の前にある現実だった。
「ご老公、それが嫌なら——」
「分かっておる」
閑叟が己の考えに沈む。
——ここが勝負所だ!
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。