りんごジュース

歌手、女優、そして作家として独自のキャリアを重ねているCoccoさん。最新エッセイ集『東京ドリーム』(ミシマ社)発売に先駆けて、収録作品を先行公開。連載3回目は炎天下で出会った「りんごジュース」売りのお兄さんの話。汗でびしょ濡れにになったCoccoさんに差し出された、いっぱいのりんごジュース、その味は? cakesではCoccoさんの独占インタビューも同時公開しています。あわせてお楽しみください。

 
 猛暑の真っ昼間。鋭い日差しを浴びて緑に燃えるような桜並木の坂を、事務所に向かってえっちらおっちら歩いていた。葉っぱの虫喰いの細かな穴までくっきりと写し出すようなその坂の木洩れ日が好きだ。数日間の沖縄帰省から戻ったばかりだったけれど、いやいや東京のほうがよっぽど暑い。汗だくのぐだぐだ。下着までびしょ濡れ。年がら年中温かい飲み物ばかり好んでいるけれど、さすがに冷たいものが飲みたいと心から欲した。

 さあ、坂を登り切った、やはり冷たいものが飲みたい。すぐ左手にある店でジュースを買おうというその時だった。ぼんやりとした存在が右手からふら〜っと近づいて来たかと思うと、蚊の鳴くような弱々しい声で何か言った。ん? 何? 立ち止まって向き合わなければ聞き取れない。車の行き交う音を掻き分け掻き分けどうにか言葉を手繰る。何が言いたい?

「りんごジュース、飲みませんか?」

 なるほど、それは新手のナンパではなく、りんごジュースの移動販売というわけだった。

 ぼんやりとお客を呼び込むお兄さんと、りんごジュースを詰め込んだ車のトランクを開けて試飲と会計を担当するこれまたぼんやりとしたお兄さんの二人組。キツネにつままれたようだったけれど、しかしジュース! 今、まさに欲していた冷たいジュース。りんごジュースなんてそれはまた爽やかではないですか。そうそうジュースが飲みたかった。ストローでキュッと200㎖ほど。

「サイズはこれだけです」

 りんごジュースは1000㎖、しかもビン詰めの常温。熱中症になりそうなお昼時に、こんな坂の上で、こんなにかさばってこんなに重そうなジュースをどこの誰が買ってくれると期待してここに車を停めたんだろう? 氷でも入れてカップで売ったほうが懸命だろうに。

「配送もやってるんです」

 いやいや、こんな炎天下で五分先のことを考えるのは無理。今よ、今、生き延びたいの。私は今すぐ飲める小さなジュースが欲しかったんですと断った上で、それでも差し出されたりんごジュースを試飲することにした。ぼんやりお兄さんはちっぽけな試飲カップにちびちびとジュースを注ぐ。もうちょっと太っ腹に注いだほうがお客の舌も心もつかめるぞ、と思いながらもちびっと飲み干す。それはとても微量すぎて、なかなか味わうどころではなかったけれど、うむむむ、りんごの皮の味までするほどりんごそのものだ。おいしい。おいしいりんごを一口かじったみたいな瑞々しさ。

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歌手、女優、そして作家として独自のキャリアを重ねているCoccoさん。最新エッセイ集『東京ドリーム』(ミシマ社)発売に先駆けて、収録作品を先行公開。歌を歌うこと、子供を育てること、人を愛すること、日々生活を営むこと、東京という街で働く...もっと読む

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コメント

nodzumi " 文体とか視点の特長は、こちらで一部公開されてるエッセイからその片鱗を窺えるかなーと思う。 4年以上前 replyretweetfavorite

consaba 最新エッセイ集『東京ドリーム』(ミシマ社)発売に先駆けて、収録作品を先行公開。連載3回  5年弱前 replyretweetfavorite