ムラタさんにマウントをとられる
飲食店に厨房機器を納めるメーカーで営業を担っているムラタさんとは、バーの顔なじみである。都内全域の定食屋に詳しい。営業の合間に食べるし、納品で厨房の裏側もよく観察している。彼が旨いと推す店はどこも、料理の在り方が誠実で、客から見えない厨房の隅々まで清潔だ。
その彼に昨夏、「とにかく安くて旨くてボリュームがすごいから絶対行ってみてください」と力説されたのが、キッチンABC(『豊島区の秘宝、反逆の定食屋』)と、経堂のキッチン男の台所である。
名物、野郎丼。4種の肉料理から選べる。こちらは生姜焼き。ニラ・にんにく入りは「スタミナ野郎丼」で、30円増し
まずは家人と行ってみた。もちろん名乗らず、自腹できっちりお支払いをした。てんこ盛りのお好み肉(生姜焼き、味噌味、塩味、焼き鳥から選べる)・温玉・チキンカツ2枚が入った名物「野郎丼」700円や、チキンカツ2枚・カレー・お好み肉・温玉の「野郎カレー」780円という野郎祭りなネーミングにも関わらず、女性ひとり客もいる。店員の若い男性も爽やかで、サービスがきめ細かい。
夫が注文を告げた後、仕事の電話が入り外に出た。しばらくすると「料理をお持ちしてよろしいでしょうか? 出すのをお待ちしましょうか?」と、聞かれた。
「あ、かまわず出しちゃってください。すぐ来ると思うんで」
ところが長電話でなかなか帰ってこない。厨房もホールの青年も、さり気なく外を見ながら、やっと戻ってきたその瞬間に2人分を盛り付け、運んできた。それが絶妙のタイミングで、いちばんおいしい状態で提供したいというシンプルな姿勢が伝わった。
レジで会計をしながら「女性も来ていいんですよね」と店名から気になっていたことを尋ねる。にっこりしながら「もちろん! どんどんいらしてください。御飯の量など調節できますんで」。
私は野郎カレーのご飯を100gにしてもらっていた。ちなみに通常は380g(!)だ。
野菜ジュースが隠し味のカレー。甘味と生姜とスパイスの加減がベストにからんだ家庭で出せない味
店主の宮田朋幸さんは、スタッフにつねづねこう言っている。
「お客さんをよく見ること。みんな一緒じゃない。一人ひとりお客さんの気持ちは違うと。たとえば長く待っている顔をしている人がいたら、“もうちょっとで出ます”と伝える。ご飯を少なめにという女性客には、器に入れてこれくらいがいいですか? と聞く。少なめにもいろいろあるし、残すのって誰も心苦しくて嫌だと思うんですよね。来やすい、入りやすい、また来たいと思ってもらうことが一番大事なので」
東京農大のお膝元、世田谷区経堂にある。近くは大学生の財布に優しいファストフードやチェーンの飲食店が軒を連ねる。宮田さんは言う。
「この業界は、生き残りをかけて今後さらに厳しくなります。半径数百メートルのお客さんにファンになってもらって増やしていくしかない。インスタを見て遠くから来るお客さんは一過性ですから」
世田谷区経堂。農大通り。店はこの外れにある
地元の人をコアのファンにするためには550円の客だろうが600円だろうが最善を尽くす。気持ちよく食べてもらい、笑顔で帰ってもらう。そのホスピタリティがないと、二度目はない。リピーターになってもらわないと存続できない。
チキンカツが2枚どーんとのった野郎カレーと野郎丼は、見た目がすごいのに写真を撮っている若者もサラリーマンも一人もいない。それはきっと、とびきり旨いからだ。こんな旨いもの、早く食べたい。あれこれアングルを変えて人様のために撮っている場合じゃない。
人参や玉ねぎ、生姜を野菜ジュースで煮込んだカレーは、野菜のしっかりとした甘味が印象的だ。ニラとにんにくの入った豚バラ生姜焼きのスタミナ野郎丼は、甘辛味に温玉のコクがからんでこれまた箸が止まらない。
スタミナ野郎丼の肉の下には、キャベツの千切りが。しんなりした食感が柔らかな肉とサクサクのチキンカツのアクセントに
くどくて食べきれなさそうと踏んでいたチキンカツは、サクサクでなぜか胃にもたれない。聞けば、すべてに小さな戦略が詰まっている。
男も女も、一見さんも、みんなのハートを鷲掴みにする戦略の謎を次項で解き明かす。
くーっ。それにしてもこんな店をしているなんて大塚のキッチンABCに続き、またもムラタさん、グッジョブ!
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