甲田屋の奥座敷。珍しく父の前にチンと座った次郎長は改まった口調で言った。
「親爺殿」
「なんだ」
「おいらを江戸にやっちゃくれねぇか」
「おお、なんだと思ったらそんなことか。いいよ。行きねぇ」
「えらく、あっさり飲み込みやがったな。本当にいいのかい」
「いいってことよ。若いうちに江戸を見とくってのはいいことだ。江戸見物、大いにけっこう、行ってくるがいいやな」
次郎八がそう言うのを聞いて、次郎長はその勘違いに気がついた。
次郎長が江戸に行きたいといったのはそういう意味ではなかった。
ではどういう意味だったのか。
直のことや福太郎のことで、実家、さらには清水港に居るのがすっかり嫌になった次郎長は、ここは一番、江戸に出て、自分ひとりの力で商人として立っていきたい、一言で言うなれば実家を出て独立したいと考えていたのである。
そこで次郎長は次郎八に、「いや、親爺どん、そうじゃない。実はこうこうこうこうこういうわけなんだよ」とその真意を語った。
そうしたところ、次郎八は間をおかずに言った。
「そりゃ、だめだ」
というのは、そらそうだ、そもそも次郎八は甲田屋という米屋の跡取りが欲しくして、雲不見三右衛門に頼んで次郎長を貰ったのである。その次郎長が家を出たのでは、なんの意味もなく、苦労してここまで大きくした甲斐がない。
「どうしてもだめか」
と次郎長は食い下がったが、
「他のことならともかく、それだけはけっしてならねぇ」
と、次郎八はどうしても許そうとしない。
ならば、きかん気の次郎長のこと、だったら勝手に出ていくだけだ、と無断で家を飛び出したか、というとそんなことはなく、
「親爺殿がそういうのなら仕方ねぇ。おいら諦めるぜ」
と言って引き下がった。
というのもまた無理のない話で、倉沢の兵吉のところで修行した次郎長は、元手もなしに江戸に行ったところで、その日の暮らしに追われるばかりでなんの成果も得られない、くらいのことは容易に予測できるようになっていた。
この時点で既に次郎長はただただ無鉄砲な若者ではなかったのである。
そんなことで次郎長は再び倦怠と孤独の日々を過ごすことになった。
その動作はいかにも懶(ものう)げで、その瞳は常にうつろであった。言われたことは機械的にこなすが、自ら進んでなにかをするということはなかった。
しかし家の者はその変化に気がつかず、「乱暴だった次郎長も最近は大人になったとみえて、すっかり大人しくなった」と逆にこれを喜んでいた。
ただ直だけがこれを訝しんでいた。
そしてその日、甲田屋は朝から上下一統、総出で芝居見物に出掛けて留守であった。
ゆえに店にも奥にも人影なく、無人であった。
その無人の間に、四囲の様子を窺いながら足音を忍ばせて入ってくる者があった。
泥棒か。
そうではなかった。
では誰なのか。無人の間に、唐紙をそっと開け、音も立てずに侵入してきたのは誰なのか。
それはこの家の跡取り息子、次郎長こと長五郎であった。
中の間から入って来た次郎長は座敷の真ん中まで進んで立ち止まった。
左は縁側、右は押し入れと箪笥、正面に床の間と違い棚があった。床には誰が見ても贋物とわかるアホみたいな軸が懸けてあり、色の悪い花が活けてあった。違い棚には文箱や帳面がおいてあり、その下の地袋には次郎八の手筺があるはずであった。
次郎長は暫くの間、そこに立って、耳を澄ました。遠くの方から、車の車輪がきしる音、人の話し声が聞こえてきたが、やがてそれも止み、なんの物音もしない。
それにいたって次郎長は、へっ、と笑い、正面の床の間の方ではなく、右に進み、箪笥の前にかがみ込んだ。
一連の動作は俊敏、その目つきが鋭かった。
次郎長は四段の箪笥の一番、下の引き出しの取っ手に手を掛け、これを、ぐっ、と引いた。そうしたところ、その上の段の引き出しの取っ手が震動で、カタカタ、と鳴った。
次郎長は慌ててて手を止めた。
首をすくめて四囲の様子を窺ったが、辺りは相変わらず静まりかえっている。
「落ち着け。誰も来るはずがない」
次郎長は自分にそう言い聞かせて、ぐぐ、と一気に引き出しを引いた。
カタカタカタカタ、と取っ手が鳴って、引き出しが開いた。
中にはいかにも高価そうな直の着物がぎっしり入っている。
「贅沢しやがって。くそが」
毒づきながら次郎長は引き出しを調べ、なかの着物を風呂敷に包んで持ち去ったかというと、さにあらず、元の通りに閉め、今度はその上の段、次はその上の段、と次々に引き出しを開けては閉め、開けては閉めを繰り返し、ついにすべての引き出しを調べ終えた。
いったい次郎長はなにをやっているのか。
直の着物調査でもやっているのか。或いは女装に目覚めて直の着物を拝借しようと思ったがなかなか気に入るものがないのか。
いや、そうではなかった。
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