人を動かす(D・カーネギー)

時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名著を、finalventさんが”新しい「古典」”として読み返す連載です。今回は、自己啓発書の元祖とも言われるデール・カーネギーの『人を動かす』(創元社)。発売から80年近くたった今でも、世界中で売れ続けているベストセラーです。しかし、実用書としての評価はあるものの、作品としての評価をされることはあまりありません。ちょっと視点を変えた本書の読み方を、ぜひ参考にしてみてください。

寓話集としての『人を動かす』

 『人を動かす』という書名を社会人の大半は知っているだろう。この本は、自己啓発書(セルフヘルプ:自助)の元祖とも呼ばれている。初版が第二次世界大戦勃発の3年前、1936年と古いせいもあるが、出版後瞬く間にベストセラーとなり、その後半世紀以上もロングセラーとなっていることも理由になっている。2010年には米国だけで25万部売れた。日本語訳の初版は1958年に出版され、2006年には累計440万部を越えた。社会人に勧める読書のリストには必ず含まれる。実社会での人間関係の対処法を懇切に説明した書籍として評価されている。


D・カーネギー『人を動かす 新装版』(創元社)

 自己啓発書という分野はもともと知識人に好まれないため、知識人からの評価はあまり聞かれない。読んでみると、「笑顔を忘れない」「人の身になる」「遠まわしに注意を与える」といった、常識的な説教集のようにも思える。若い人には退屈かもしれない。かく言う私も、若い日に読んだときは退屈した。しかし社会人となり10年、20年がたつと印象は変わる。凡庸に思えた説教も実践は難しいと自省するようになる。身の回りで、いい年をして常識を欠いた大人の失態を見る機会も多くなる。さまざまな人間が綾なす社会にあって、当たり前に見える常識というものは、実はとても大切なものだと再確認する。あるいはそう思える頃、本書再読の時機が熟している。

 本書の翻訳はよくこなれていて読みやすい。構成は4部からなり、パート1が「人を動かす三原則」、パート2が「人に好かれる六原則」、パート3が「人を説得する十二原則」、パート4が「人を変える九原則」、そして附録として「幸福な家庭を作る七原則」となっている。それぞれの原則は、具体的な小話を積み重ねた後に示される。

 本書から社会人の常識が学べるが、まずはカーネギーの話術に魅了され、素直に楽しむとよい。意外と説教くさくない。笑話集としても読める。個々の原則に至る前に、面白い小話がいくつも畳みかけるように登場する。「カーネギーおじさんのお話」といった風情だ。小話はたいてい1ページ以内。長いものでも3ページほど。日常のちょっとしたなにかの合間に一つひとつ分けて読むこともできる。

 教訓をもって話題を締める形式は、古代ギリシアの『イソップ童話』などの寓話集を踏襲している。本書は現代の寓話と言ってもよい。冒頭などいきなりニューヨーク市の殺人犯が登場する。極悪人である。だがこの極悪人は、自分は心優しい人間だと主張していたというのだ。人間は矛盾に満ちた存在である。そういう人間とどのように関係を築いていったらよいのか。誰もが抱くその疑問から、読者は著者カーネギーの話術にぐいぐいと引き込まれていく。

 話術に魅了され、著者が好きになり、読者の心が動かされる。読者という人が、まず本書によって動かされる。そのままに「人を動かす」という実例になっている。オリジナルのタイトルは『友だちを得て人々に影響を与える方法(How to Win Friends and Influence People)』である。「人を動かす」とは、他人を自分の意のままに支配することではない。まず、友好な関係を構築することにある。

応用可能な経験科学として

 自己啓発書があふれた現代では、本書の内容はすでに常識の一部になっているので、本書が登場した1936年当時の状況は理解しづらいかもしれない。当時はこうした内容の書籍は少なかったらしい。

 本書出版前のこと、40代のカーネギーは技術者向けにスピーチの講師をしていた。その過程でスピーチを教える以前の段階として、人間関係をよくする基本技術が必要なのではないかと気がついた。彼は役立つ書籍や情報を探したが見つからず、ひとりでこつこつと関連の話題をノートに取り、それをまとめて講座のテキストとした。これに受講者からの経験談が重なり、一冊の書籍としてまとめられ完成したのが本書だった。もともと社会人入門実用書といった背景があったのである。

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「極東ブログ」で知られるブロガーのfinalventさん。時事問題や、料理のレシピなどジャンルを問わない様々な記事を書かれているが、その中でもとりわけ人気が高いのが書評記事。本連載は、時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名...もっと読む

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