母の異変
― 2017年 父65歳 母61歳 私32歳 ―
父に認知症の診断が下りた翌年のある日、母から「具合が悪い」というLINEがきた。日常的に連絡はとっていたが、母から体調不良を訴えられることはあまりなかった。
ふだんはこまめに返信が来るのに反応が遅い。大丈夫?とたずねてもLINEの既読もつかない。心配になり家につくと、顔色も悪く苦しそうな母がいた。単なる風邪、というようなものではなかった。
救急車を呼ぼうかと話すが、痛みと苦しさのピークは越えたと言うので、翌日まで様子を見ることにする。翌朝、比較的顔色も良く、ひとりで隣駅の病院まで向かった母。
その後母から来た連絡は、「即入院になりました」というものだった。診断は、胆管結石。
大きな痛みはないようだが、体調が悪い状態で、父と二人で家にいるのはひどくストレスがかかる、という事情もあり、2週間ほど入院することになった。母の入院中は、交代制で父の介護をすることにした。
『母が入院した』という事実は父に少なからずショックを与えた。自分をサポートしに来たといって、入れ替わり立ち替わり人物が現れる。そして母が家にいない。
「なんでいないの?」
「入院してるでしょ」
「どこに入院してるんだっけ?」
父とはこのやりとりを延々と繰り返す。
認知症の人は、環境の変化に弱いとよく言われる。今日が何日で今が何時で、自分はどんな環境下におかれているか、すべてが定かではない父にとって、母が目の前にいないというのは、巨大な環境の変化だ。ましてや、自身が介護されるべき状況である自覚がないため、本人にとってはサポートされる筋合いもなく、意味がわからない状態である。
ある日の夜中、突然父が私に話しかけて来た。「お母さんはどうしてるんだっけ?」「入院してるよ」といつも通りのやりとりをすると、なんだか少し様子がおかしい。聞くと、どうやら、自分の妻と、自分の母(祖母)を混同しているようだった。祖母は5年前に他界しているのだ。
父も、えもいわれぬ焦燥感があったのだろう。連日「お見舞いに行く」と言うが、病院も病棟も部屋番号も曖昧な父がひとりで到底たどり着けるわけがないし、迷子になられても困るし……という事情を抱えながらなだめすかす。可哀想だが、父を病院まで送り迎えする余裕は誰にもなかった。
父は完全に置いてきぼりで、混乱していた。
がんかもしれない。
母の入退院からほどなくして、私は、父の病気などの家庭状況とはまったく関係なく、『婚約破棄』という自分の事情で、実家への引越しを決めていた。そんな傷の痛手を抱えながら厳しい心境で引っ越しの片付けをしていると、退院後の経過検診でCT検査を受けに行った母から、予想もしない連絡が来た。そして息を飲んだ。
「重大な病気の可能性があるからすぐに他の病院で再検査をしたほうがいいって。がんかもしれない」
要するに、入院中も、退院後もしばらく見落とされていた、重大な事実があったのだ。
パニックになりかけながら、すぐに親戚に相談をし、がんの専門医療病院を紹介してもらい、母は検査を受けた。
いざ病院に行くと、その患者の多さと、若いひともちらほらいることに驚いた。
がんの患者ってこんなにいるのか、と他人事のように思ったが、どう考えても他人事ではなく、ここにいる私もすでに当事者なのであった。
診断は、がんだった。ステージはⅣ。
原発巣は、十二指腸乳頭というきわめて発見しにくい場所にあったという。母の場合、大腸などにも転移が見られるため、手術は難しく、抗がん剤で治療して行くしかないとのこと。
一番高いステージを宣告される身としては、「もうすぐ死ぬ」とつい発想してしまいがちだ。ただしステージⅣにも段階があり、母にはまだ治療の余地があるので、いくつかの抗がん剤治療を段階的に試していくことになる。抗がん剤治療は副作用も強いため、この先、抗がん剤の効果以上に、副作用の強さによって本人の寿命を削ってしまうようであれば、痛みを緩和させる治療に移って行くこともあると告げられた。
どのくらい生きられるのでしょうか、というセリフはドラマでよく聞くが、母の主治医は、余命宣告や目安を頑なに言わなかった。ベテランの雰囲気のある先生は極めて穏やかに、私たちが絶望しないような言い方で、具体的な今後について話した。
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