金田正一から慕われた球団オーナー
2020年1月21日、前年の10月6日に86歳で亡くなった元プロ野球選手・監督の金田正一のお別れの会が東京の帝国ホテルで行なわれた。金田は日本球界では歴代最多となる通算400勝をあげ、引退後はロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の監督を2期(1973~78年、1990~91年)務めている。往年の大投手を偲んで、会場には長嶋茂雄や王貞治など球界関係者をはじめ各界から多くの人が参列した。また、その2日前に亡くなったロッテ球団のオーナーの重光武雄(2020年1月19日没、98歳)が生前に用意していた弔電も披露された。その文面は《金田正一様のお別れの会に接し、在りし日のお姿をしのびつつ、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。どうか天上より、愛するご家族の皆様を、そして人生をささげられたプロ野球の今後の姿を見守り下さい》というものであった。これを受けて金田の子息の賢一は、《父は重光オーナーのことが大好きでした。一番楽しそうに話していたのは、オーナーにしかられた話。80歳を超えると父をしかってくれる人はいません。兄のように慕っておりました》と語っている(「日刊スポーツ」2020年1月21日配信)。
金田と重光の関係は古いようだ。金田がロッテ監督時代、親会社のCMタレントとして社長の重光と芸能週刊誌の企画で顔をそろえたとき、重光は《金田監督とは、ふるいつきあいだ。彼がプロ野球にデビューしてからだから相当になる》と語っている(『週刊平凡』1976年2月5日号)。金田のプロデビューは1950年、愛知・享栄高校を中退して創設まもない国鉄スワローズ(現・東京ヤクルト)に入団したときだから、亡くなった時点で70年近くつきあいが続いていたことになる。
金田は1965年に巨人に移籍し、4年後に引退する。金田の引退した1969年、重光率いるロッテはパシフィックリーグの一球団である東京オリオンズと業務提携している。親会社の大映が映画産業の斜陽にともない経営が悪化しており、大映社長で球団オーナーの永田雅一はスポンサー探しに奔走し、当時製菓業界で急成長を遂げていたロッテに目をつけたのだ。両者を仲介したのは元首相の岸信介である。当初は球団買収を持ちかけられたが、重光が固辞したため、結局、「資金援助はスポンサー形式で、一時金として6億円、年間8千万円で5年契約。経営・人事面にはタッチしない」との条件で提携にいたる。このとき親会社は大映のまま、チーム名は「ロッテオリオンズ」と改称された(春日和夫「73年にもあった『新パ・リーグ元年』」)。いまでいうネーミングライツに近い形での球界参入であった。
だが、1971年に永田は大映再建のためオーナー職から退き、ロッテが替わって球団の経営を引き受けることになった。永田の退任にともないオーナー代行からオーナーに昇格した中村長芳(岸の筆頭秘書)は、翌72年のシーズンオフ、やはり経営難に陥っていた西鉄ライオンズ(現・埼玉西武)を自身の名義で買い取り、経営にあたることになったため、オリオンズを去る。重光がロッテ球団のオーナーに就き、さらに金田の監督就任が決まったのもこのシーズンオフであった。
藤井勇『ロッテの秘密』という本には、このとき金田は自ら監督にしてくれないかと重光に直談判したとある。自分が監督になれば、必ず客を呼んでみせるし、一流の球団にすると約束してみせたというのだ。いかにも自信家の金田らしい話である。ただし、当人に言わせるとまったく逆で、重光のほうから「監督になってくれないか」と話があったらしい(金田正一『いいたい放題』)。
後述するように、重光は商品開発とあわせ、ロッテの知名度を高めるため宣伝にも力を入れた。それを考えれば、長嶋・王と並ぶ球界のスターで、派手な言動から常に注目される存在だった金田を監督に選んだのは、しごく納得がいく。実際、監督となった金田は、試合の初回にコーチャーズボックスに入るたびに四股を踏み、体をひねって片足を大きく蹴り上げる「カネやんダンス」を披露するなど、パフォーマンスでファンを魅了した。肝心の指導力も存分に発揮し、2年目のシーズンとなる1974年にはリーグ優勝に続き、日本シリーズで中日ドラゴンズを下して日本一も達成する。
金田が重光を「兄のように慕っていた」のには、自分と同じく朝鮮半島にルーツを持つことにも理由があったのではないか。金田は在日コリアン2世として生まれ、のちに日本に帰化した。一方、重光は戦前、日本の統治下時代の韓国から単身渡日し、艱難辛苦の末に製菓業で成功を収めた立志伝中の人物である。戦後、1952年のサンフランシスコ講和条約発効にともない日本国籍を失った彼は、終生、帰化しなかった。のちには韓国にも進出し、日本名の重光武雄と韓国名の
空襲で工場焼失……苦難を乗り越えてロッテ創業
辛格浩=重光武雄は1922年10月、現在の韓国の南東部に位置する慶尚南道
釜山から連絡船で山口県下関に渡り、東京に出ると京浜工業地帯の工場の雑役夫や重い鉄板の運搬夫、荷物の上乗り、牛乳配達など肉体労働をこなしながら、やがて早稲田実業普通科定時制に入学、その後、早稲田高等工学校(現・早稲田大学理工学部)に進む。もともとは文学青年で作家を志したこともあったが、文学を捨て理工系に進んだのは、徴兵回避のためであった。すでに太平洋戦争に突入していたこのころ、重光は高円寺にある軍飛行機製作工場からの委託で、旋盤のカッティングオイルなどを開発する研究所に徴用されていた。
そんな折、下宿に出入りしていた古着屋と質屋を営む日本人の老人と出会う。1944年のある日のことだ。彼は老人から「資金は自分が出すから、旋盤の冷却用の油をつくる工場を一緒にやらないか」と持ちかけられる。こうして老人が全財産の5万円(6万円ともいわれる)をはたいて、八王子の繊維工場となっていた民家を製油工場にして事業を始めた。だが、3回出荷したところで工場が空襲で焼失してしまう。老人は「おまえのせいじゃない」と言ってくれたが、彼の胸は痛んだ。老人が出資してくれたカネは返さねばならないと、再起を期す。
ここから日本の敗戦を挟み、八王子の農家の納屋で鍋と釜で油脂から石鹸やポマードをつくって、売り出した。これが当たった。やがて荻窪の石油缶の再生工場跡に移って製造を続け、老人には終戦から1年足らずで、出資金に利子をつけて返済する。このときのことを重光は後年、《返しに行ったら、爺さん、涙ぐんで。「俺の選んだ男に間違いはなかった」って。その頃は本当に、朝鮮人の差別があった。でも爺さんは僕を信用して全財産を懸けてくれた》と振り返っている(『日経ビジネス』2005年7月18日号)。
これと前後して1946年2月には、重光は荻窪の工場に化粧品会社として「ひかり特殊化学研究所」を立ち上げる。細長い小瓶が出回り始めると、それまでのグラム売りや一斗缶売りから1本10円の瓶売りに変えた。こうなるとラベルを貼る必要が出てくる。そこで彼がつけた商標名が「ロッテ」だった。かつて故郷の村でむさぼり読んだゲーテの『若きウェルテルの悩み』のヒロイン、シャルロッテの愛称からとったものだ。その後もしばらくは化粧品の製造・販売でかなり稼いだが、復興にともない大手の化粧品会社が息を吹き返すと、危機に直面する。
転業を模索するなか、同業の知人たちからチューイングガム製造販売業の共同経営を持ちかけられた。戦後、日本に進駐した米軍の兵士たちはガムを愛用し、彼らのジープにはそれを目当てに子供たちが群がっていた。これはいい商売になりそうだと誘われ、重光は資金と工場を提供し、知人たちがガムの製造と販売を担当するという分業体制で起業した。ガムは思惑どおり売れに売れたが、まもなくして知人たちと不和が生じて決裂、彼は単独でガム製造と販売に乗り出す。
外国製のガムの原料には南米産の天然チクル樹脂が使われていたが、当時の日本では絶対量が不足していた。そこで重光は酢酸ビニール樹脂、松ヤニ、可塑剤などを混合し、それにサッカリンやゼラチンなどで甘みをつけて風船ガムをつくった。それでも甘味に飢えていた子供たちはこれに殺到した。1948年6月、重光は「株式会社ロッテ」を創業し、化粧品はやめて、ガムの製造・販売に本腰を入れる。半年後には新宿に工場用地を購入して大量生産=工業化に着手した。
特賞1000万円の懸賞に人々がロッテのガムを競って求める
終戦直後には重光以外にもガム業者が乱立し、その数は400近くにのぼったという。やがてそのなかから関西を地盤とするハリス(1947年設立)が、カネボウの支援を受け、森永製菓の流通ルートを利用してトップメーカーへとのし上がる。酢酸ビニール製板ガムを主力商品とするハリスに、重光もまた板ガムで対抗しようと決意した。ハリスからトップの座を奪うには、高品質化以外にないと判断した重光は、板ガムの原料として天然チクルをロッテ単独で輸入する。
こうして1954年、天然チクル製板ガム「バーブミントガム」「スペアミントガム」があいついで発売された。ただし、当時はまだ天然チクルの輸入が許可されておらず、正式ルートではなく代行ルートで輸入を行なっていた。このためロッテは、関係省庁に対して輸入許可の陳情を開始する。これが5年ほど続けてやっと功を奏し、1958年にまず試験用の輸入が許可されたのに続き、輸入商社6社にも許可が下りた。
これで順調に行くかと思われたが、ガム業界から強い反発が起こる。とりわけハリスはロッテ批判の急先鋒となり、天然チクル輸入のため貴重な外貨を使うべきではないと主張、他社の多くもこれを支持した。重光はこの圧力に屈せず、業界団体の会合でハリスの役員と乱闘寸前の激論を闘わせた末、決裂する。しかしその後、諸外国からの貿易自由化の要求に対し、ガム業界は従来の団体に代わって、新規会員を加えた「日本チューイングガム協会」を1960年に設立し、一転して自由化への方策を打ち出す。これを受けて関係官庁もついに天然チクルの自動承認制による輸入を認めるにいたった(『ロッテ50年のあゆみ——21世紀へ』)。
重光はこれと前後して、ハリス打倒のため販路の拡大にも尽力した。それまでガムとは無縁に見られていたタバコ屋など末端販売も徹底させる。1961年には主婦のパートタイマーをセールスの最前線に配置した、LHP(ロッテ・ホーム・プロパー)制度をスタートさせる。その講習会で販売員らにたたき込まれたのが「常全多前」——「(ロッテの製品は)常時、全種類を、多量に、しかも前方に、陳列されていなければならない」という標語だ。彼女たちはこれに従い、受け持ちの区域の小売店を定期的に巡っては、奥のほうに引っ込んでいるロッテ製品を前に出し、汚れているケースがあればふき、品数の不足の注文を取るよう努めた(「『在日』の英雄・ロッテ重光武雄伝」)。これとあわせて営業社員には日々ノルマが課され、猛烈なセールスが展開された。
他方で、マスメディアを利用した広告宣伝を盛んに行ない、企業イメージとそのブランドロイヤリティの向上に努めた。テレビ放送開始まもない1958年には、スポンサーとなった『ロッテ歌のアルバム』(TBS)がスタート、人気歌手が毎週続々と出演した同番組を通じてロッテの名は日本中に浸透していく。1961年には、ガムの外箱100円分を一口としてロッテに送ると抽選で特賞1000万円が当たるという懸賞を新聞各紙で告知した。当時の1000万円は現在の1億円以上に相当する。それだけに人々は競ってガムを買い求め、760万口もの応募が殺到したという。あまりの反響の大きさから、公正取引委員会が調査に乗り出し、これをきっかけに「不当景品類及び不当表示防止法」が制定される。ともあれ、こうしたかいあって翌年、ロッテはついにハリスを追い抜き、業界トップに立った。ハリスはその後、凋落の一途をたどり、やがてカネボウに吸収される。
「球団は岸さんに頼まれたものだから、私の目が黒いうちは手放さない」
重光は消費者の心をつかむことに抜群の才能を発揮した。日本では1984年に発売されてヒットしたチョコレート菓子「コアラのマーチ」は、1997年に中国でも発売されたが、売上はかんばしくなかった。原因を調べると、どうやら中国の消費者がコアラを見たことがないためらしい。それを聞いた彼は、北京動物園にコアラを贈るよう部下に命じたという(結局、動物園側に難色を示され実現しなかったが)。2004年にはロッテのCMに韓国の俳優、ペ・ヨンジュンが登場した。その起用は前年暮れに重光が提案したのをきっかけに決まったという(『日経ビジネス』2005年7月18日号)。ペ・ヨンジュン出演のドラマ『冬のソナタ』がNHKのBSに続いて総合テレビでスタートし、韓流ブームに火がつくのは2004年の4月だから、それより数ヵ月先んじたことになる。
ロッテのプロ野球への進出も宣伝活動の延長線上にあった。ただ、球団は長らく経営難が続き、売却もたびたび噂された。1988年に同じパリーグの南海ホークスと阪急ブレーブスがあいついで身売りしたときには、次はロッテに違いないと踏んだマスコミが重光のもとに押しかける。このとき、彼は親しい記者に、《オリオンズは岸さんに頼まれたものだから、私の目の黒いうちは絶対に手放さない》と漏らしたという(『日経ビジネス』2005年7月18日号)。それほどまでに岸信介とは強いつながりがあったということだろう。
岸は、冷戦下にあって共産勢力に対抗すべく韓国との関係を重視し、時の大統領・
それでも、重光が本国である韓国への投資とその受入を承認させるため、日本政府や韓国政府などに戦後早い時期から働きかけ、岸や朴正煕など有力政治家と関係するようになったのは事実だ。そこには、韓国儒教の「
金融危機を尻目に韓国ロッテグループを伸長する
ただし、重光は製菓業よりも重工業による本国投資を本命とした。《日本の工業化を目の当たりにして韓国でも同じ流れが押し寄せると思ったし、菓子には将来性がない。どうしてもリーディング産業にはなれない》というのがその理由だ(『週刊ダイヤモンド』2004年9月11日号)。1961年に軍事クーデターによって成立した朴正煕政権も、経済再建のため、在日一世の経営者に本国投資を促し、国内産業を育てる政策をとった。これに乗じて重光は基幹産業の製鉄業を興そうと、日本の大手製鉄会社の技術を韓国に移植する計画を立て、韓国政府に青写真を提出する。しかし、製鉄は政府が主導すると朴政権が方針を変更したため実現しなかった。
1965年の日韓基本条約締結にともない両国間に国交が成立すると、朴政権は日本から獲得した資金と技術を有効に活用した。ここから韓国では「
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