次郞長の決意

【第7話】
古典作品をボーイズラブ化した大好評シリーズ『BL古典セレクション』待望の新連載!「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』を、作家・町田康が自身初のBL作品として、圧倒的な鮮やかさをもって現代に蘇らせる。月一回更新。

 天保十五年春。倉山の兵吉にしごかれて、ただただ粗暴であった次郎長は、いま、この瞬間、なにをなすべきか、という判断を下すことができる若者に成長して甲田屋に戻った。

 そうして家業を手伝いながら商いの基礎を学んでいった。

 なので、もう数年すれば次郎八の右腕となり、そしてさらにその後は次郎八の後を継いで甲田屋の主となるはずであった。

 この年、諸国には飢饉が広がって、世間にはその日の食にも事欠くお人もあったが、それに比べれば次郎長は恵まれた境涯にいた。次郎八は相場を張り、米を右から左に動かして、かなりの利益を得ていた。次郎長に将来不安はないはずであった。

 にもかかわらず次郎長は怏々として楽しまぬ日々を送っていた。

 直との仲がおもしろくなかったのである。

 直と次郎長はなさぬ仲。そして直と次郎八の間に子はなかった。

 そうなるとどうなるのか。

 年若い後添えである直は次郎八の死後を見据えていた。いまは次郎八が健在である。なので甲田屋の儲けを好き勝手に使うことはできないが、次郎八亡き後は後家となった自分がこれを好きに使うことができる。

 その場合、邪魔になってくるのが次郎長であるが幸いにして次郎長は粗暴で商人としての資質を欠いている。とてもじゃないが甲田屋は継げないだろうし、当人もそんなつもりはないように見える。よかった、よかったあ。

 と思い、乱暴者の兵吉のところへ厄介払いをしたところ、どういう訳か次郎長は読み書き十露盤を習得したうえ、そこそこの思慮分別を備えた若者となって戻ってきてしまった。

 まったくもって兵吉のボケはなにをしてくれたのか。いっぺんどつきまわしたらんとあかん。

 と、それはそれとして、このまま次郎長が一人前の商人になり、跡取りになったら、自分は甲田屋の財産を好きに遣えなくなる。自分はもっと芝居を観に行って役者に帯や着物を買ってやったり、もちろん自分も着物、櫛、簪を爆買いしたり、うまいものをとって鱈腹食ってブクブクに肥ったりしたいのに、それがなにひとつできなくなる。

 それでは次郎八みたいな年寄りのところへ後添えに来た甲斐がない。

 そう考えた直は、次郎八の前では、なによりも次郎長のことを思っている、誰よりも次郎長のことを案じている、という演劇をしながら、次郎八の見ていないところでは、その言動を嫌味な口調で批判し、小さな失敗をことさら大袈裟に吹聴、成功・成果には冷笑を以て報い、その将来について不吉な予言をするなどして、ことあるごとに次郎長につらくあたった。

 といって感情の趣くままそうした訳ではなく、直には目途・目算があった。

 つまり、そうすることによって次郎長の商いへのやる気、モチベーションを殺ぎ、「真面目にやっても報われないのなら、評価されないのなら、真面目にやる意味がない。こんななら博奕や角力、芝居見物、飲酒、売淫などした方が増し」という気持ちにさせて、その評判が下落するように仕向けたのである。

 もちろんこんな小手先の細工が清水港でも有数の米屋の主、次郎八に通用するわけはなく、次郎八は直の欺瞞を即座に見破り、直を呼びつけてこれを厳しく叱った。

 ということはまったくなかった。

 直の色香にすっかり迷ってしまっていた次郎八は直の言葉をそのまま信じ、

「そうか。少しよくなったかと思ったら、それか。困ったものだ」

 と言って心を痛め、悲しんでいた。

 では一方、次郎長はどうだったかというと、勘の働く子供だったので、直の策略を概ね見破っていた。なので、その思惑に乗せられて商いに対するやる気を失うということはなかった。

 かと言うと、そうでもなくて次郎長は実はけっこうやる気を失っていた。

 なぜと言うに、それはそうだろう、頑張って成果を上げれば冷笑される。少し失敗したらボロクソに言われる。近い将来好きな人に嫌われる、なんて不気味な予言をされる、などされたら、大なり小なりやる気が失われる。

 そしてそれとは別にもうひとつ、清水港に次郎長のやる気を殺ぐ事情があった。

 彼の福太郎のことである。

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BL古典セレクション 東海遊侠伝 次郎長一代記

町田康

古典作品をボーイズラブ化した大好評シリーズ『BL古典セレクション』待望の新連載!「海道一の親分」として明治初期に名をはせた侠客、清水次郎長。その養子であった禅僧・天田愚庵による名作『東海遊侠伝』を、作家・町田康が自身初のBL作品として...もっと読む

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コメント

namarinatsukawa 心が貧しい者たちに囲まれても次の行動を決意する次郞長強いなあ。次回も楽しみです。 7ヶ月前 replyretweetfavorite

washiotomokiti 『告白』を想起させられる悲しみと可笑しみ。 7ヶ月前 replyretweetfavorite