次の日も朝からスーパーのパートに出た。学校に行きたくないとだだをこねる玲奈をひっぱたいてしまった。火がついたように泣き出した玲奈を、純枝はほとんど抱きかかえるようにして家の外まで引きずっていった。ゴミ出しをしていた隣人にけげんな顔をされたが、玲奈はぴたりと泣き止んで、しぶしぶと登校した。
その日は、客の買ったひき肉をレジに通す度に、ハンバーグを作るのだろうかと考えてしまった。今日に限って、冷凍のハンバーグをたくさん買った人もいた。五時になり、更衣室に向かったが、店長は追っかけてこなかった。
玲奈は、またかんしゃくを起こした。
「ママ、今日はハンバーグ買ってきてくれるっていったじゃない! 噓つきぃ」
「オムライス作ってあげるから、わがままいうんじゃないの」
「やだっ。ハンバーグが食べたいの。レイナ、もう卵、きらいっ」
夕食はインスタントラーメンに変更した。ハムをたくさん入れた。玲奈は、ふてくされたままそれを食べた。このところ、笑顔よりも不機嫌な顔を見ることのほうが多い。もっと一緒にいたいけれど、生きていかなくてはならないのだ。
パートとキャバクラのかけもちで、とにかく時間がない。家にいる限られた時間は、最低限の家事をこなすだけでせいいっぱいだった。友達と会う機会はどんどん減って、今ではメールのやりとりも途絶えている。世の中に玲奈と二人きりでほっぽり出されている気がする。
自分が少しグレていた過去を棚に上げて、玲奈には、まっすぐでまじめな女の子になってほしい。
心の真ん中ではいつでもそう思っているのに、時々、めんどうになってしまう。玲奈のことも含めたすべてが重たい荷物のようで、それをいったん手放したい衝動にかられる。少しの間でいいから家賃や食費や光熱費のことを考えずにいたい。
純枝のつとめているキャバクラは、駅のはす向かいのビルに入っていた。一階から三階までは居酒屋や焼き鳥屋などの飲食店、四階がキャバクラ。最上階である五階だけが敷居の高いバーだった。といっても純枝は足を踏み入れたことがない。店名やロゴ、看板の雰囲気がまったく違う。五階にも行ったことがある四階の客によれば、なんでも、ビルのオーナーが経営していて、「タイ・ブレーク」という店名はテニスのルールからつけられたそうだ。
その日も、セクハラざんまいの客たちの相手をして、やっと勤務時間が終わった。年代物のオールド・パーのボトルを入れた客がいて、苦手な水割りを三杯も飲まなければならなかった。頭がどんよりと重く、髪の毛に染みこんだ煙草の匂いがうっとうしく感じられた。
エレベーターに乗ると、思わずしゃがみ込んでしまった。三回深呼吸をする。ドアが開いた。なんとか身体を持ち上げて、外に出たら、そこは一階ではなく五階だった。
重厚な扉には小さな文字で「tie break」と書いてある。五階で降りるのははじめてだった。タイ・ブレークってこういう綴りなのかと思い、しばらくぼんやりとそれを眺めていた。再び、エレベーターのドアが開き、男が一人おりてきた。目が合うと、声をかけられた。グレイのジャケットにブルーのシャツを着て、ハゲでもメタボでもない清潔そうな男だった。
「あなたも、この店に?」
「っていうか、そのう……」
「待ち合わせか何か?」
「や、違います」
「じゃあ、一杯つきあってくださいよ」
さっきまで、見知らぬ男相手に飲みたくもない酒を飲んでいたというのに、今この男の口から発せられた「一杯」は、まったく別のものという気がする。扉の向こうに行きたいとつい思ってしまい、あわてて現実に戻る。
「おりる階を間違えただけなんです」
「そうなんだ。じゃあ、何かのご縁かもしれない。ちょっと飲みましょうよ」
「ごめんなさい。私、今日は持ち合わせがないですし」
「はは。ぼくが声をかけたんだから、もちろんご馳走しますよ」
「でも……」
「この店のバーテンダーはなかなかの腕前でね。彼のカクテルを飲まないで帰るなんて、人生を損してますよ」
人生を損している……。
見知らぬ男にそういわれて、身体から力が抜けた。その通りだと思った。吸い寄せられるように、扉の向こうに行った。玲奈の声がよみがえったけれど、一杯だけと自分にいい聞かせて「タイ・ブレーク」のカウンター席に腰をおろした。
カクテルの種類はよくわからないというと、男が選んでくれた。紅茶の味がするそれは、甘くておいしかった。バーテンダーによれば、ロングアイランド・アイスティーというカクテルで、ウォッカにラム、ジン、それにテキーラが入っているそうだ。紅茶は一滴も入っていないと聞き、驚いた。すぐにグラスが氷だけになった。氷を見つめる間もなく、二杯目が置かれた。
男が純枝の肩に手を回した時、頭の中からは家賃のことも食費のことも光熱費のことも消え去った。
店を出てタクシーに乗り、ほどなくすると、ホテルの前にいた。
部屋に入るなり、男は純枝の服を乱暴にはぎとった。
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