いつもと変わらない日常が続いた。朝は二人でフレッシュジュースとトーストの朝食をとり、地下鉄を乗りつぎ、九時半までに出社。営業から発注が来たら在庫を確認して、出荷指示を出す。パソコンの前と地下倉庫を行ったり来たりしているうちに昼食の時間になる。ランチはたいてい、社員食堂でとる。定食Aは五百五十円、副菜が一品多いBは六百五十円。午後もほとんどパソコンの前にいる。棚卸しの時以外、残業はない。帰りにスーパーに立ち寄り、買い物をしながら献立を決める。
駅前のスーパーマーケットのにぎわいも、何も変わらない。冷蔵庫の中のものを思い出しながら、野菜コーナー、鮮魚コーナー、精肉コーナーの順番で回るのも以前通りだ。企画部にいた時、料理は週末のイベントでしかなかった。
その日はちらし寿司とおすいものを作った。かんぴょうを煮て、干し椎茸を煮て、錦糸卵を作った。マグロと白身魚といか、きゅうりを切る。米が炊けたら、寿司桶で寿司酢をしゃもじで切るように合わせる。昆布とかつお節で出汁をとったお吸い物。具材は玉子豆腐と三つ葉。
正道が帰ってきたのは十時近くだった。きれいに整ったテーブルを見て、おどろいていた。寿司飯は少し乾いてしまったけれど、おいしかったはずだ。
翌日は皮から餃子を作った。合い挽き肉のものを三十個、海老入りを三十個。その次の日はトム・ヤム・クンに挑戦した。
梅雨が明け、本格的な夏になった。猛暑の年だった。正道と神宮の花火大会にいったり、久しぶりに水着を新調して由比ヶ浜に海水浴に出掛けたり、友人の家のバーベキューにも参加した。いつもと同じ、蟬の合唱のよく似合う夏だった。
九月の声を聞いた頃、課長の柿本さんにランチに誘われた。社食かと思ったら、たまには外に出ようという。ふたつ先のビルの最上階にあるフレンチに行った。窓からは東京スカイツリーがよく見えた。東京にはこんなにたくさんビルがあるのかと思った。
「柿本さん、ここ、よく来るんですか?」
「まさか。気分転換したい時だけよ」
「何か、あったんですか?」
「いや、私じゃなくて」
柿本さんの提案で、ノンアルコールのビールを頼んだ。
「ほんとなら、ワインでもいきたいわよね」
ほんとなら、ってどういう意味だろう? なんのために呼び出されたのか、葵はさっぱりわからなかった。前菜の栗のポタージュを食べ終わった時、柿本さんがいった。
「ねえ、私の妹に会ってみない?」
「妹さんに? どうして、私が?」
「うちの妹も、流産しているのよ、二度」
「あ、その件ですか……」
できれば、会社の人には関わってもらいたくない部分だった。
「気を悪くするのはわかる。妹もそういう経験をして、今、流産の経験者の方のケアをやってるのよ」
「ケア? って、別に、私……、普通に」
葵の言葉はさえぎられた。
「普通じゃないわよ、今の葵ちゃん」
胸の奥で何か重たいものがころがった。
「ごめんね、ずけずけいって。でも、普通じゃなくて当たり前だと思う。三回も流産を経験したら、普通ではいられないわよ」
柿本さんは学生時代からの恋人と結婚して、娘と息子が一人ずついる。流産のつらさがわかるわけがない。葵は黙っていた。
「妹がいうのには、同じ経験をした人同士で話すだけでも気が楽になるって。そういうコミュニティを作ったりしてるのよ。情報交換もできるし……」
「私のどこが普通じゃないんですか? 仕事でミスしたわけでもないし、会社に迷惑かけたりしてないですよね?」
「最近、かなりキツいわよ、周りの人に対して」
この間、男性社員が伝票処理でミスをした。それを見つけて指摘したのは葵だった。昨日は、ランチ休憩から十五分も遅れて戻った若い女性社員に注意をしたら、彼女はこともあろうに、泣き出してしまった。当たり前のことを普通にいっただけなのに。だいたい、それらを流産と結びつけられることに怒りを覚える。葵はそうした主張をごく冷静に伝えた。
魚料理が運ばれてきた。ウエイターは、まくしたてる葵にひるんで皿を置こうかどうしようか、迷ったようだ。
「ねえ、正しいことだけが答えじゃないと思うわよ。私、上司としてじゃなくて、友人としていっているの。うちの妹と一度、話してみたらいいと思うの」
「……流産のこと、わざわざ話したくもない。会ったこともない人に。余計なお世話です。それに……」
「それに、何?」
「柿本さんは私の友人じゃないですから」
「そっか。ごめんなさい。妹は、あ、美由子っていうんだけど、葵ちゃんを見ていると、美由子がショックを受けていた頃を思い出しちゃって、つい、おせっかいをしたくなっちゃったの。まあ、気が変わったら、いつでもいってね」
その後は当たり障りのない世間話をしながら、ランチは終わった。コース料金は一人三千円。社食の約五倍だ。柿本さんは、自分が誘ったのだから払うといったが、葵はがんとしてそれを断った。テーブル上で、何度もお札を押し付け合う。とうとう柿本さんが根負けした。
「わかったわ。じゃあ、割り勘で。今度、社食で何かご馳走させてちょうだい」
その夜、葵は憤慨して正道に話した。
「あったま、きちゃう。私は、前と変わらず、普通にしてるっていうのに」
正道は答えず、冷蔵庫から発泡酒の缶を出して、立ったまま、それを飲み始めた。
「あのさ、そろそろ流産は過去のことにしようよ」
「過去のことって、私にとってはもうすっかり過去だよ、あんなの」
「そうかな……」
あれから、葵と正道の間にセックスはない。妊娠をするのが怖くなり、セックスをする気にはなれなかった。一生しないつもりではない。でも、今はだめだ。まったく、だめ。正道が何かいおうとしたのがわかったから、葵はそれを遮った。
「私のこと、腫れ物にさわるみたいに扱わないでよ! もう、私は子供なんて欲しくないし、母親にならなくていい! 正道が子供欲しいなら、どっかよそで作ってきたらいいじゃない」
正道はいい返すどころか、小さく深呼吸をして、黙ったままそこにつったっていた。余計に腹がたって、葵は大きく音をたててドアを閉め、寝室に行った。正道はその夜、ソファで眠った。
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