妊娠はするが、流産などを繰り返すことを「不育症」という。

34歳の葵は、また流産してしまった。これで、三度目。自分は子供を持てないのではないか。妊娠をしても産めないのであれば、赤ちゃんもかわいそう……。心にぽっかりと空洞ができてしまった葵だったが……。
 妊娠と出産にまつわる切実な想いを描いた7編の短編集『産まなくても、産めなくても』から「五つめの季節」を特別公開。

 子供が流れた。

 二年ぶり、三度目の流産。

 葵の心の片隅には、やっぱり、という思いもあった。二度も失敗しているのだ。今度こそ、という気持ちの中に、ほんの少し、またダメかもしれないという不安があった。それが的中した。

 悲しくはなかった。心が空洞になってしまった、といったらいいだろうか。感情がわき起こらない。重くてよどんだ空気だけが自分の心を覆っている。病室の古ぼけた壁がいびつに見えるのは、まだ麻酔が切れていないせいだろうか。吐き気は一度目や二度目の時ほどひどくはなかった。口の中が粘ついて不快だ。

 午前中に子宮口を開く処置をして、手術は午後五時から行なわれた。今は、何時頃だろう? 病室の時計を探したけれど、見つからなかった。窓際の椅子にタブレットが置いてある。見覚えのあるそれは、夫正道のものだ。タブレットで時間を確認しようと思い、上半身を起こそうとしたけれど、だるくてあきらめた。どうせ、今夜はただ寝ているだけだ。時間を知ったところで、何も変わりはしない。

 最初の流産のことをぼんやりと思い出す。ちょうど妊娠十週目のことだった。晩ご飯を食べていると、突然ものすごい腹痛があった。タクシーを飛ばして救急外来に行くと、お腹の中ですでに胎児が亡くなっていることを知らされ、そのまま入院した。搔爬手術の後は精神的なショックが大きく、二日間ほど病院にいた。生まれてはじめて精神安定剤を服用した。

 二度目に妊娠した時は慎重になり、健診をまめに受けた。妊娠十四週目の健診の際、胎児がもう生きてはいないことがわかった。三日後の手術の予約をした。入院した日は処置を受け、手術は翌日だった。夕方には退院したが、完全に麻酔が切れていない身体で移動するのはきつかった。だから、今回は麻酔をかけた日は病院に泊まれるように、日程を組んだ。計画的な自分が腹立たしい。

 今日の朝はお腹にいた何かが、今はいない。何かとはまだ人間の形になっていない肉体というべきか、それとも命の抜け殻か。あったはずのものが、ない。再び自分にいい聞かせてみるけれど、実感がわかなかった。前と違って、悲しみも後悔も感じないことが不思議だった。

 正道が大きく膨らんだビニール袋をぶら下げて病室に入ってきた。おにぎりにペットボトル、それに雑誌が数冊押し込まれている。長居をしてくれるつもりなのだろう。

「お、目が覚めたんだ。気分、どう?」

「うん……。ちょっとだるいぐらい。他は普通。今、何時頃なの?」

「えっと。九時十五分」

「ねえ。今夜は、もう帰っていいよ。私は一人で大丈夫」

「でも……。そういうわけにはいかないでしょ」

「もう慣れているじゃない、私たち」

「……おれは、そんなことはない。慣れないよ、やっぱり」

 淡々とした会話が途切れ、正道は椅子に座ると、ビニール袋からおにぎりを取り出し、黙って食べ始めた。時々、ペットボトルのお茶を口にし、またおにぎりを頰張る。機械的な動作でおにぎりを三個、あっという間に平らげた。

「私ね、不思議なほど、何も感じないんだ。悲しいとかくやしいとか、それから申し訳ないとかもね。流れちゃった子に悪いかな?」

「そんなことはない。心が壊れないように、自分で自分のこと、守るようになったんだよ」

「そうなのかな」

 それから事務的な確認をして、正道は帰った。

 少し身体が楽になったので、正道が買ってきてくれた女性誌をぱらぱらとめくった。星占いのページで手が止まる。自分の星座を確認すると、今が「絶好調の時」なのだという。新しいことを始める時期だとも。本当にこういうのってあてにならないと心の中でつぶやき、雑誌を放り投げた。

 葵は、働き始めて間もない頃、占い師がいるバーにいったことがある。会社の同僚と一緒だった。占い師は年齢不詳の厚化粧の女で、占いは確か、タロットカードによるものだった。友達や知り合いの血液型と星座をほとんど覚えている先輩の女性社員が、彼女をテーブルに呼び寄せた。占いにはあまり興味がなかったけれど、流れで占ってもらうことになった。何歳で転機が訪れるだとか、大きな病気にはならないけれど怪我には気をつけた方が良いだとか、もっともらしい口調でどうとでも受け取れることを並べ立てた。葵がうんざりしかけたところで、占い師はカードをめくりながらこういった。

「あなたは、一生で三人の子供を身ごもります」

「え?」

 まだ二十二歳の独身で、妊娠や出産などまったく実感のない話だった。他の内容は忘れてしまったけれど、この言葉だけはずっと頭の片隅に残っていた。結婚もしないうちから、三人の子供に囲まれている自分を想像してみたりもしたけれど、忙しくしているうちに、忘れてしまった。

 二度目の流産の時、ふと、この言葉を思い出した。三人という人数が奇妙なほどリアルに感じられたのだ。自分には、あと一人しかいないのかもしれない。ふだんは占いなど信じないのに、あの時の「三人」という数字だけは心にひっかかっていた。

 最初の妊娠は結婚から一年後の二十九歳の時。二度目は三十二歳になる直前だった。そして、今、葵は三十四歳である。年齢的に妊娠がむずかしくなる時期では、まだない。けれど、なんとなく出産のチャンスをすべて使い果たしてしまった気がするのだった。

 翌日、正道は休暇をとって葵に付き添った。互いの両親には葵の妊娠を告げていない。もちろん入院も。またダメだったら、と思うと、伝えるのは怖かった。案の定こんな結果になったのだから、その判断は正しかった。

 夫が退院手続きをしている横で、葵はぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。梅雨の合間の晴天。中庭の大木が青々としていて、降り注ぐ陽光のまぶしさを引き立てていた。駐車場までの間、何人もの乳児と母親、妊婦とすれ違う。前回も前々回ももっとも嫌な場面で、目を背けていた。それなのに、今回は、彼ら彼女らを目で追っていた。自分のいる時空とは違うところのめずらしい生き物に思えて、つい、見てしまう。

 職場に復帰したのは、退院した翌々日だった。上司にあたる課長の柿本佳代子には、入院の理由を話してあった。葵が出社すると、周りに人がいない時を選んでさりげなく声をかけてきた。

「大丈夫? キツかったら、無理しないで、私にいって」

「ありがとうございます。大した手術じゃないので」

「身体もだけど、気持ちも、よ」

「もう慣れちゃいました。三度目ですもん」

 柿本さんは視線を泳がせ、言葉を濁した。相手が返答に困るようなことを口にする自分はいやなやつだと思う。

 葵は中堅どころのアパレルメーカーの商品管理課で働いている。かつては企画部に所属する正社員で、残業だらけの毎日だった。担当していたのは、二十代の働く女性をターゲットにしたブランドで、自分の感じる、欲することがそのまま企画となった。仕事が楽しいのは当たり前であり、忙しさなんて気にならなかった。三十代になったら、自分の年齢に見合ったブランドを担当したいと考えていた。子供を産んだら、それぞれのブランドとテイストを合わせたベビー服の提案もしたい。やりたいことだらけで、いつでも時間が足りなかった。

 最初の流産をした時、楽しく仕事をしていた自分がうらめしくなった。働き過ぎなのではないかと思い、企画部よりも残業が少なく、帰宅時間が読みやすい商品管理課への異動を願い出た。大規模なプロジェクトを立ち上げたばかりで、男性の上司は驚き、ひきとめた。思い切って理由を話すと、彼は、それじゃあ仕方がないな、といった。表情には困惑と不満が入り混じっていた。

 三ヵ月後の人事で営業部付の商品管理課に異動した。企画部のかつての仲間たちは次々とはなやかな仕事をこなしている。気にならないといったら噓になるけれど、自分には妊娠や出産、そして母親になるという大きな仕事が待っているのだ。そちらを優先させるのが当然だと思っていた。

 二度目の流産を経験した後、会社を辞めようかとも考えた。けれど、不妊治療をしているわけではないし、この先、いつ妊娠するかもわからない。仕事を辞めてしまうと、自分が何者でもなくなってしまう気がした。

 今回の入院で、三日間会社を休んだ。出社してみると、三日前と何ら変わりなく業務は進行しており、何の支障もきたしていない。そんな当たり前なことが、葵には何かとても理不尽なことに思えた。

「不育症」という言葉を聞いたのは退院して二週間後。処方箋を出してもらいにいった際、ドクターがいった。妊娠はするが、流産や子宮内胎児死亡を繰り返し、出産にまでいたらない状態を「不育症」と呼ぶのだそう。

「検査を受けてみてはいかがですか?」

「検査……。私の身体に何か異常があるっていうんですか?」

「ですから、そうかどうかを調べてみたらどうかと」

「私のせいで、あの三人はこの世に出て来られなかったっていうこと……?」

「そうと決まったわけでは……」

「じゃあ、もし、そうだとしたら、治るんですか?」

「不育症というのは、はっきりした原因のある病気とは違いますから。まずは状態を把握して、それに合った……」

「もう、いいです」

「は?」

「妊娠したくないんです、これ以上。私が身ごもると赤ちゃんがかわいそう」

「そんなふうにお考えになるのは、よくないですよ」

 病院を出ると、さっきと同じ景色がさっきと同じように見えた。自分は大丈夫、そう思えた。

【出版社注】

この作品は、2016年当時の取材に基づき雑誌掲載、書籍化を経てこのたびのweb連載となりました。作中の「特別養子縁組制度」につきましても、取材当時の制度・法律を基にして描かれています。養親の要件や養子の年齢等、その後の法改正などを反映していませんこと、どうかご了承ください。

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産まなくても、産めなくても

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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コメント

asami300765 個人的に、不妊症よりも不育症のほうが残酷だと思う。上げたものを落とされるつらさ。 8ヶ月前 replyretweetfavorite