◆疲弊する都会
個人主義が幅をきかせる都会では、家族や地域などの人間関係が希薄だ。
私の友人に、都会の孤独死を追って、孤立した人間の悲惨な最期を撮影し続けているカメラマン・郡山総一郎氏がいる。彼はこんな話をしてくれた。
「孤独死の現場は、警察が調べた後、最初に清掃会社が現場に立ち入ることになるので、私はそれまでの仕事をすべて辞め、清掃会社にアルバイトとして勤め、孤独死の現場に最初に足を踏み入れ、片づけながらシャッターを押し続けています。
たどりつくのは団地やアパートの一室。入ると鼻がもげるような腐臭が立ち込めますが、部屋の状況そのものはまるですぐに居住人が帰ってくるかのような自然さです。普通に暮らしている中で、ある日倒れて、あるいは衰弱して、そのまま息絶えるわけだから、生活感が残っているんです。
孤独死というと、身寄りのない人か、身寄りがいても遠方に住んでいるケースなのだろうと思っていましたが、都会で孤独死した人の半分は、親族が目と鼻の先に暮らしているケースでした。それでも遺体は死後二カ月後に発見されたりする」
つまり日常生活の中で、親族や隣近所と会話することがなかったということになる。人間関係の断絶によって、孤独死に追いやられているのだ。
こうした孤独死は、東京の団地やマンションでは一日平均約一〇件起きているという。これが都会の実情だ。
一方で、「孤独死の何が問題なのかわからない」という会社員の女性にも出会った。彼女は、車座座談会でその思いをこう語った。
「家族を持たない、持っていてもそれぞれ独立した個人として生き、最後はひとりで静かに終わりたいと自ら選択するのであれば、それもひとつの生き方ではないか」と。
そういわれてみると確かに、死に様は個々人の選択の問題であり、孤独死をひとくくりにして悲劇的なことと断定するのもおかしい話だとは思った。煩わしさに頭を悩ませるくらいだったら、孤独死は覚悟の上で個人としての自由な暮らしを最後まで貫き通したいという生き方が、選択肢のひとつとして許容される時代になってきているのかもしれない。
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