親と行く最後の海外旅行
― 2015年 父63歳 母59歳 私30歳 ―
ここ数年、毎年夏になると、母が「どこか旅行に行こうよ」と誘ってくるようになった。認知症の影が迫り、日常生活に支障をきたすレベルで色々なことができなくなりつつあった父が、母と二人きりで旅行するのは母に負担が大きい。しかし両親は昔から旅行が好きだ。
母は、会社員の兄と弟よりも時間の融通がききやすい私に、「旅費は負担するよ」という旨味をつけて誘ってきた。少し厄介な父の世話がつくとはいえ、親と旅行することは悪くない。「父ともうなかなか旅行できなくなるかもしれないしな…」という想い(と旅費負担の誘惑)から、夏の親子三人旅行が恒例になりつつあった。だがこの年は勝手が違った。私たち三人は大胆にも、チェコ共和国へ行くことに決めた。父に認知症の診断が下りる一年前のことだ。
そもそも私は、この夏に3週間のチェコ旅行へ行くことを決めていたのだ。私が大学生だった2000年代初頭、チェコのアニメーションが少し流行っていた時期があった。渋谷のミニシアターでチェコアニメを上映していたり、ラフォーレ原宿で展示があったりして、私もせっせと足を運んではチェコへの憧れを募らせていた。
はじめに見たのはいわゆるコマ撮りアニメで、カクカクと動きながら独特な表情と造形の人形が動くもの。手作り感も残るのに高度で、雰囲気が明るくない、というか暗いし、少し怖さも感じる。
ブジェチスラフ・ポヤル監督の「ふしぎの庭」シリーズの雰囲気は代表的だ
可愛さと暗さが同居している不思議さに惹かれ、一体どんな国なのだろう?と、どうしても行ってみたくなり、友人とワクワクしながら行った初めてのチェコ。その旅から10年越しに、久しぶりにチェコへ行こう!と一念発起したのだった。
10年前は大学生だった私は30代になって、『絵はんこ作家』という自由度の高い職業になっていた。せっかく行くのだから、今度は3週間の長旅にして、がっつりとチェコを周遊して見てこよう。そうして私は旅に出ることを決めた。
チェコでの3週間の滞在のうち、両親と過ごしたのははじめの3泊4日のみ。成田空港から一緒にチェコ入りし、当時チェコ以外眼中になかった私は、母が行きたいと言うウィーンに行くことは拒み、両親とはチェコの首都プラハで別れ、その後両親はウィーンに行きそこから帰国した。
プラハからウィーンまでは鉄道で4時間。今思えばそのくらい付き合って一緒に同行すればよかったのに、私は1日でも長くチェコにいたかった。両親と同行することは軽いテンションで決めたものだったから、「父とは最後かもしれないけれど、母とはまたいつか来られるかも」くらいに思っていた。これが母と行く最後の海外旅行になるなんて、その時の私は考えもしなかったのだ。
親との旅行はいつもより「間違いない」ほうを
両親を連れていくにあたり、行く場所もきちんと選びたい。初めてチェコに行く両親にとってはプラハも外せないけれど、せっかくならもう一都市行こうと決めた。
・比較的わかりやすく絶景ポイントがある
・小さめの都市で、回りやすい、買い物しやすい
・アクセスが良い
これらをポイントにして選んだのは、チェコの中でも王道の観光地である「チェスキー・クルムロフ」という街。プラハから直通のバスで約3時間ほどでいける。長距離バスは座席も広々していて、飛行機の座席のようにテレビが付いていたり、車内ではコーヒーを入れてくれるサービスもあるので快適だ。ここぞ、親を連れてくるのに「間違いない」街。
こぢんまりした手作り感のあるホテルに泊まったら、屋根裏部屋みたいな部屋から見えた景色が、すでに可愛すぎた。ホテルからこの景色が見えるって、夢なのかな?
チェスキークルムロフは小さい街なので、名所であるお城までの道のりを囲うようにして買い物しやすいお店がたくさんある。脚力の弱った父でも歩きやすい規模の街だ。
ふと立ち寄った洋服屋さんで、父が帽子を試着した。チェコ人なら似合うのだろうか、派手なデザインのさまざまな帽子を試着する父を、店員さんは正直な表情で、堂々と苦笑いしながら眺めている。私や母も「ちょっと派手すぎでしょ」とつっこみながら、気がつけば父はひとつ帽子を購入していた。買う段階になっても店員さんは苦笑いしていた。
認知症の父との旅行で困ること
父と母二人の旅行で、母が一番困っていたのは、「はぐれないか」という心配がいつもつきまとうことだった。父はもともと落ち着きのない性格で、駅のホームに着くと、じっとしていられず電車がくるまでずっと駅のホームの端まで意味もなく歩き続けるような習性があった。そんな父は、お互いがトイレに入り、先に出たらここで待っていてねといっても、そのことを忘れてどこかに行ってしまう。父は携帯を持っていても電話に出ないので、はぐれてしまう不安はつきまとう。特に海外旅行では死活問題だ。
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