ここで一貫して言ってきたのは、多くの人と知り合う、自分と違う人の行動する背景を考える、その人たちに伝えられる言葉をつくる、ということでした。
とにかく、私たちは「ふつう」がどこにもないにもかかわらず、何かその集団なりの「ふつう」を求めようとしがちです。たとえば、ある人を見て「公立校っぽい」とか「女子校/男子校出身ぽい」とか思ってしまうことで、コミュニケーションを阻害してしまうことがありますよね。スクールカーストという言葉が流行りましたが、「陽キャ/陰キャ」とか、「一軍/二軍」とかもそうかもしれません。実際、きっちり分けるのって本人にとってもすごく安心するというか、予防線を張れる。何かすることを諦める効果があるけれど、一方で、それってそんなに重要なのか?とも思います。
「カテゴライズ」という言葉があります。ある特徴に即して何かを区別する、区分する、分類する……といった意味だけれど、私たちは知らず知らずのうちに人をカテゴライズしていますね。さっきの「陽キャ/陰キャ」もそうだけど、話が通じる人/通じない人、気が合いそうな人/合わなそうな人、といった形で分けることはよくあります。ファッション誌とかCMにある「○○系女子/男子」にも似たようなところがあるかな。
うちの大学にはジャニーズが好きな学生が多いのですが、女の子の場合、それを人に伝えると必ず「彼氏はイケメンがいいんでしょ?」と言われるそうです。多くの学生は「それとこれとは別や!」と怒って言うのですが、こういう、「○○なやつが××しがち」という言動は一種の「あるあるネタ」になって、それを介して他人とコミュニケーションが取れるのかもしれません。ある人たちを指して「ギャル」とか「オタク」とか「意識高い系」とかそういうカテゴライズをおもしろがることもあるし、それを前提にコミュニケーションする楽さは絶対にある。
だいたいこういう人だったらこういう話題を出せばいいかな、というイメージを持ってしまうことは、私もよくあります。18歳の学生にだったら、受験の話とか部活やサークルの話とかのほうが身近に感じてもらえるだろうし、逆に政治や信仰の話をすると身近じゃないかなとか思ってしまう。ただ、それも一種のレッテル貼りですよね。私の勤めている大学は京都にあって、外国人の観光客の方がたくさんいるんですけど、たとえば白人の方が困っていたら英語で話しかけたくなってしまうし、アジア人の方だと英語より通じやすい言語があるかな? もしかしたら日本語もいけるかな?と思ってしまう。それもやっぱりカテゴライズの一種ですよね。
アーヴィング・ゴッフマンという社会学者は、カテゴライズを「スティグマ」という理論から分析しました(『スティグマの社会学』改訂版、2001年)。「スティグマ」とは「烙印」という意味で、何か社会的によくないとされる(社会学の言葉ではこれを「逸脱」と言います)レッテル貼りをしてしまうイメージです。カテゴライズはそうしたものを生み出しかねない。