認知症の父に運転をやめさせるのはメチャクチャたいへん。

前回までのあらすじ)平和でそこそこ過保護な家庭で育ち、両親から大事に育てられてきた私。24歳の時に、父とニューヨーク旅行に行くと、なんだか父の様子がおかしいことに気づく。今までできていたことができなくなったり、人との約束を覚えられなくなったり…。会社を退職した父は、短期的な記憶がますます抜け落ちるようになり、家族は認知症を疑ったが、医師からの診断はなかなかおりなかった。

認知症の父に運転をやめさせた方法

2015年 父63歳 母59歳 私30歳

認知症の人やそれに類する状況の人に運転をさせるのは危険だ!…なんて、そんなことは当事者の家族が一番よくわかっている。それでもなぜ事故が起こるかって、長年運転を続けていた人に運転をやめさせるのは、本当に簡単な話ではないから。その方法には決して確実な正解はないし、多分特効薬もない。だから厄介だ。

我が家も例にもれず、運転が大好きだった父から車を取り上げることには苦労した。認知症の人が起こした事故のニュースなどを見ると心が痛むし、見るたびに父に運転をやめさせなければとも思っていた。

「今運転するのは本当に危ないからやめて」と説得しても、父は「ずっとやってきたんだ。俺が運転できないわけないだろう!」と声を荒げる。映画を観に行ったり、ドライブしたり、お茶を飲みに行ったり。父から見れば、今まで自分が自由にやってきたことを、意味不明な理由で制限されていると感じるのだろう。「運転やめて」「ハイハイ」などと従うわけはない。

父に運転をやめさせるまでには数段階、家族の連携プレーと、嘘が必要だった。「車で出かける」という父に、母は「車の鍵は長男である兄に貸している」という嘘をついた。そのときは怒り狂うが、なんとか数分なだめて放っておくと、そのうちに車で出かけようとしたことを忘れている。

「鍵を持っている」のは時に兄だったり、伯母の聖美さんだったり。同居して毎日顔を合わせている母や弟などではなく、家にいないけれど身近な誰かに責任をなすりつけてやりすごす。そして父が忘れるまで待つ。もちろん通用しないときもあるし父も毎度怒る。それでも病気が進行するにつれ、短期記憶の間隔も狭まり、だんだんと車のことを思い出す時間が減っていく。それまではテレビで温泉へ行く番組をみれば、「俺も温泉行きたいなぁ…あ、車で行こうかな」と連想していた父も、時が経つにつれ、その場で願望を口に出すだけで実行に移す前にすぐに忘れてしまうようになった。

つまり父は、「するりと話題をかわしながら自然消滅」作戦によって運転をやめさせられたのだ。ずるい方法かもしれないが、我が家の場合、父が譲れない部分については説得よりもこの方法が基本的に有用で、病気の進行に助けられた部分が大きい。それでも外出時などに、「俺が車を出そうか?」という癖はその後三年ほど続くのだが。

車の運転をやめたあと、自転車を使う期間もあった。しかし駅に行って駐輪するたびにどこに停めたかもわからなくなるので、父が自転車で出かけるたびに、母は駅まで行き、自転車を探す羽目になる。
駐輪場だとあたりがついていても、1階から3階まである中から探しだすのも一苦労。さらに駐輪場に停めた保証もない自転車を探し回るというのは苦痛でしかない。そうして父の自転車ライフも「家族が捜索を諦める」ことによって幕を閉じた。

こうして父は危険要素のある運転や自転車を卒業するが、その結果、外出をどんどんしなくなっていく。

父の失踪事件

2015年 父63歳 母59歳 私30歳

父の主治医が休職されたことを機に、自宅近くのクリニックに転院。しかしそこの検査でも認知症ではなく、あくまでてんかんという診断を受ける。家族が抱く認知症の疑いは、なかなか晴れない。

この頃から父は、服装に無頓着になっていた。
父はどちらかというと派手好きで、服へのこだわりは昔から強く、値段を見ずに服をバンバン買うタイプだった。

奇抜な配色や組み合わせを選ぶ父の趣味はたまに理解を超えていたが、世の中のお父さんよりは結構派手な父のことは、いま考えれば結構好きだった。その父が、一日中部屋着でいるようになったり、たまに外出しても自分の服に興味を示さなくなった。こんな悲しいことって、ない。

もともと不注意な性格があるとはいえ、しょっちゅうものを紛失していた。マフラーや手袋などの小物は当たり前、比較的高価な上着までもなくしていたときには驚いた。
さらに時間や曜日の感覚を失いはじめ、日にちは正確に把握できなくなってくる。
時計をみても早朝6時か夕方6時なのかがわからず母を早朝に起こすことも頻繁にあり、耐えかねた母はいつしか父と寝室を分けるようになる。

歩くのも遅く、足を引きずることもあり、体のバランスも不安定。外出も減り、家に閉じこもりがちに。午前も昼も問わずうたた寝をしていることが増えた。
そんな現状が重なり、放っておけばずっと家にいる父を、母は懸命に外に連れ出していた。そこで父は、ちょっとした失踪事件を起こす。

その日、父と母は弟の大学が主宰するラグビーの試合観戦へ。
ラグビー場で席を取り、席に父を残して食べ物・飲み物を買って母が戻ると、父がそこにいない。驚いた母は父に連絡を取ろうとするが、携帯はいっこうに出ない。待っても戻らない、探しても見当たらない。

数時間後、家に電話してみると父が電話に出た。ひとりで家に帰っていたのだ。
後から聞いても、そのときの記憶が一切ないという。

どうみても、父が、どこかおかしい。

しかしこの失踪事件を医師に伝えるも、これもひとつの『無意識の行動=てんかん発作』だと言われる。これだけ事例が重なっても、まだ「認知症」という名前がつかない。
早く認知症だと言ってよ。
母はそんな心理に近かったに違いない。

6年越しの診断

2016年 父64歳 母60歳 私31歳

翌年、再度転院をし、主治医が変わったのと同時に、てんかんの治療薬も変更した。

その頃、父の記憶のますますの低下を感じた母は、それが薬の変更によるものなのかどうかを新しい主治医に相談すると、父の症状がてんかんの症状と食い違っていると指摘される。
そして医師の紹介のもと、検査入院をして精密検査を受けることになった。

検査入院の翌日見舞いにいくと、父は閉鎖病棟に入っていた。どうやら入院初日に父は暴れたようだ。自分がなんでここにいるのか、いくら説明を受けても納得できない。多少は納得するそぶりを見せたとしても、言われたそばから忘れてしまってその都度パニックを起こしていたのだ。

父のいる病室のフロアは必ず鍵を開けないと入れないようになっていて、入院患者の無断外出は決して許されないどころか、フロア内を一人で出歩くことも制限されていた。というより、慣れない場所を一人で動き回ることは父にとってもかなり困難になっていた。

しかし父はそれを決して認めようとはしない。とても綺麗な病棟で、部屋は立派な個室。浴槽までついているお風呂やトイレ、テレビに囲まれながらも父は「なんでここにいるんだ、帰る」「俺はどこも悪くないと言ってるだろう」と繰り返し母を責めた。本来入院するはずの日程の間も、しばしば自宅への外泊を挟み、だましだましなんとか2週間の検査を終えた。


その結果、このときはじめて、いままであったとされる脳のキズのほかに、側頭葉の血流低下が発見され、てんかん以外の疾患がみられるとの診断を受けた。

診断は、『中程度のアルツハイマー型認知症』。
不穏が足音を立て始めた2010年から、6年越しの診断だった。

なにはともあれ、認知症のための治療薬がようやく処方された。そのためか記憶は少し改善されたように見え、怒りっぽくなっていた父の雰囲気も、穏やかになったように感じた。

とはいえ、相変わらず父は自分が病気であるという認識がない。
診断は本人も直接聞いているものの、それを覚えてはいられないのだ。
本人だけでもうできなくなっている待ち合わせも、運転も、日頃の行動すべてにおいて「病気じゃないからそれくらい自分でできる」と主張する。

薬は処方されたが、その他にトレーニングなどを行うわけでもなく、基本的には家でじっとしていることが多い生活では、父の病気の進行が早まるのではないかという恐れはあった。

認知症の症状は、抑えられることはあっても、決して巻き戻すことはできない。
今のうちに、父とできることはなるべくしておこう。私も母も、そんな気持ちを抱えて過ごしていた。

(つづく)


ここ最近の父


いまは父の洋服は私が買っているが、なるべく派手で明るい色を選ぶようにしている。


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時をかける父と、母と

あまのさくや

新卒で入社した企業はブラックだった。入社2年目の24歳の時、父と2人でのニューヨーク旅行。なんだか父の様子がおかしい…。父は若年性アルツハイマー型認知症だった。徐々に変わっていく父と、取り巻く家族の困惑。そんな中、今度は母に末期のがん...もっと読む

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コメント

yuriuri おしゃれにうるさかった人が服に無頓着になると本当に寂しいものです(´・ω・`) うちの母もそうだった 4日前 replyretweetfavorite

lion5040 この事例は我家😱 5日前 replyretweetfavorite