生徒のひとりがこんなことを言った。「ヘミングウェイを読みすぎて、文章が彼みたいな調子になってきたんです。ぼくは彼の真似をしているだけで、自分がなくなっているんじゃないかと心配です」。これはさほど悪いことではない。ホールマーク社のグリーティング・カードにアメリカでいちばん素晴らしい詩がのっていると信じているベスーン叔母さんのような口調になるよりは、ヘミングウェイのスタイルのほうがずっとましだ。
誰かの真似をしているのではないか、自分独自のスタイルがないのでは、と私たちはいつも心配する。そんな心配は無用。書くことは共同作業なのだ。物書きは一般に、火の燃えさかる丘でひとり戦うプロメテウスのように思われているが、そうではない。自分だけにオリジナリティがあると考えるのは傲慢というもの。私たちは、これまでにものを書いてきたすべての人たちの背中におぶさっているのだから。私たちは歴史や、さまざまな思想や、この時代の清涼飲料水とともにいまを生きている。私たちの文章の中には、こういったすべてのものがごちゃまぜになっているのだ。
物書きは恋の達人だ。他の作家にすぐ恋してしまう。実はそれが書くことを学ぶ方法なのだ。物書きはある作家を気に入ると、その人の振る舞い方やものの見方が理解できるようになるまで、全作品を何度も繰り返し読む。恋人になるとはそういうことだ。自分の中から抜け出し、誰かの皮膚の内側に入っていく。人の作品を愛する能力とは、そんな可能性を自分の中に目覚めさせることなのだ。それはあなた自身を大きく広げることはあっても、物真似屋にすることはけっしてない。人の作品の中で自然だと感じられるものは、やがてあなたの一部になり、書くときにその動作のいくつかが使えるようになる。けれども、作為的なのはだめだ。恋の達人は、恋している相手に自分が成り代わっているのに気づく。アレン・ギンズバーグがジャック・ケルアックにわかってもらえるように書こうと努めたのはそのせいだ。「ジャック・ケルアックに恋した彼は、自分がジャック・ケルアックであることに気づいた。愛はそのことを知っている」。『アフリカの緑の丘』(Green Hills of Africa)を読むとき、あなたはサファリ旅行に出たアーネスト・ヘミングウェイになる。それから、リージェンシーの女たちを見ているジェーン・オースティンになり、言葉で独自のキュービズムを実践しているガートルード・スタインになり、テキサスのほこりっぽい町の玉突き場に歩いていくラリー・マクマーティンになる。
書くことは、それだけで終わるものではない。それは他の作家たちとの関係を築くことでもある。嫉妬心を燃やすのはやめよう。心に秘めた嫉妬はとりわけたちが悪い。最悪だ。誰かが素晴らしいものを書いたら、それは私たちすべてにとって、世界がいっそう明晰になったということだ。作家たちを自分とは別人種とみなして、「あの人たちはうまいけど、私はへたくそ」などと言わないこと。そういう二分法はよくない。そういう考え方だと、いつまでたっても上手になれない。その逆もまた真なりで、「すごいのは自分だけ」と言っているようなら、その過剰な自尊心のために作家として成長できないだろう。また、自分の作品に対する批判に耳を傾けられなくなる。「あの人たちもうまいし、自分もうまい」という姿勢でいい。このひと言は心に大きな余裕を与えてくれる。「あの人たちは年季が入っている。自分もしばらく同じ道をたどって、そこから学ぶようにしよう」。
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