ところが一方の閑叟は、険しい顔で外輪や煙突を眺めては、何かを考えているように見える。
凌風丸はしばらく三重津湾内を走り回ったが、問題はなさそうに思えた。佐野は次々と渡される数字の羅列のような書付に目を通すと、「ご無礼仕ります」と言って頭を下げて、罐室へと下りていった。
しばらくして姿を現した佐野は、罐室の担当者らしき者を連れて戻ってきた。その男の顔は煤で黒々としている。
「ご隠居様、蒸気罐を見て回ってきましたが、異常はありません。此度の試し航行は成功です」
佐野が試し航行の成功を告げる。帆船と違って、外輪船は外輪が水をかく時の音が大きいので、船上では大声を上げないと、近くに入る者にさえ聞こえない。
「そうか」
内心では飛び上がりたいほどうれしいのだろうが、閑叟は例によって顔色一つ変えない。
「では、そろそろ三重津に戻ります」
「何だと」
「三重津に戻ると申し上げたのですが」
「何を言っておる。有明海には行かぬのか」
その言葉に周囲は騒然とした。
「いえ、今日のところはこれくらいで——」
「すでにそなたらだけで有明海まで行ったんだろう」
「はい。二度ほど試し航海をしましたが——」
「では、わしも行きたい」
事の成り行きに大隈も啞然として言葉もない。
「外洋は風も強く波も高く、何が起こるか分かりません」
すでに船に慣れていない者たちは、青白い顔を舷側から出して胃の中のものを戻している。
「さようなことは承知だ」
「いや、ご隠居様に万が一何かあっては——」
「わしが溺れ死んでも、そなたに腹は切らせぬ。そなたはわが藩の宝だからな」
佐野が困った顔をする。
「それがしの腹などどうでもよいのですが、ご隠居様の身に何かあれば、ご家老衆が腹を召すことに相成ります」
佐野が付家老たちを見回すと、皆そろって視線を外した。
「そうだな。その時は此奴らが腹を切る。尤もわしと一緒に溺れ死んだら腹も切れぬがな」
家老らの顔が引きつる。
「いや、腹の話ではなく、外洋は危険がいっぱいで——」
困り切った佐野に大隈が助け船を出した。
「ご隠居様、日を改めましょう。さすれば伴走する船も用意できます」
伴走する船とは、万が一の場合の救助用船舶のことだ。
「いや、今行きたい。そんなものは後からついてこさせろ」
大隈が佐野の顔を見ると、佐野が意を決したように傍らの老人を促した。
「ここにおるのは田中久重と申す者で、この船の蒸気罐を造りました」
田中久重という名を聞いた閑叟が、突然関心を示す。
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