七
京都の政争と距離を取る閑叟だったが、それは政治権力を握ることに関心がないだけで、科学技術への関心はいっこうに衰えていなかった。こうした閑叟の志向を、いかに中央政治へと向けていくかで、大隈らは頭を悩ましていた。
だが事態は、最悪の方向に向かっていた。
慶応元年(一八六五)閏五月になっても、前年の禁門の変から第一次長州征伐の余波は残り、諸藩の尊皇攘夷派は鳴りを潜めていた。
というのも第一次長州征伐において、長州藩が戦うことなく幕府軍の降伏条件をのんだことは、幕府の自信を深めさせることにつながり、いったんは降伏を認めたにもかかわらず、追加で毛利父子と五卿の江戸送還を求めてきたのだ。
だが長州藩としては降伏条件をのんだことで話はついており、幕府の強引なやり方に反発を強めていた。これに怒った幕府は二月、老中に三千の兵を率いさせて上洛させた。再度の征長の勅許を得るためである。しかし薩摩藩に取り込まれた朝廷は、逆に老中を叱責して将軍家茂の上洛を催促する。
これを受けた幕府は五月、家茂が上洛を果たした。大坂城に本拠を置いた幕府は、毛利父子が再三の江戸上府命令に従わないことを不届きとし、長州再征の勅許を朝廷に求めた。
こうした動きに幕権が回復されたと見る向きも多く、その象徴的事件が、土佐勤皇等を率いてきた武市半平太の処刑だった。これにより土佐勤王党は瓦解する。だがその生き残りの坂本龍馬は、長州と薩摩に手を組ませるために奔走していた。
幕府が威勢を取り戻したかに見えた同年閏五月、一人の英国人が長崎に着任する。その男の名はハリー・パークス。この男が着任から十八年間も駐日英国公使を務めることになるとは、日本人どころか本人さえも思っていなかっただろう。
尊皇攘夷派にとって逆風の吹く七月、江藤新平は蟄居謹慎中にもかかわらず閑叟に献言書を提出した。そこには「今こそ薩摩と結び、長州と筑前(福岡)に合力し、天下の隙を狙い、天下に変化があった時、海陸に軍勢を分かって進み、京師の地を制圧し、皇権を回復すべし」という趣旨だった。つまり江藤は早くも倒幕論を唱えていたのだ。
しかし九月、家茂は征長勅許を得るべく大坂から上京し、公家たちに強引な政治工作を行って勅許を取り付けた。
佐賀藩にも幕命が下り、閑叟は五千七百(第一次長州征伐の半数)の兵を小倉まで出兵させた。
だがこれを聞いた江藤は、年寄役(家老)にあてた書状の中で「今は幕府が強盛に見えるが、間もなく自壊することになる。薩長は弱小のように見えても、後に強盛になるので撤兵すべし」と献言している。
一方、政局が混迷を極める中、大隈と副島は次の時代へ向けて「仕込み」をしていた。
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