六
五月、閑叟が長崎にやってきた。このところ閑叟は胃の調子が悪く、柄崎(武雄)温泉で湯治していたが、いっこうによくならず、西洋医学に頼ることにしたのだ。
長崎五島町にある藩邸の一つ(深堀屋敷)で、蘭医ボードウィンの往診を受けた閑叟は、ボードウィンの処方した薬がよかったのか、次第に元気を取り戻していった。
そうなれば動き出したくなるのが閑叟である。
突然、「せっかく長崎に来たのだから、グラバーに会いたい」と閑叟が側近に漏らしたことで、すぐにグラバーに連絡が取られ、面談の段取りがつけられた。この時の通詞には大隈が指名された。
グラバーとはト―マス・ブレーク・グラバーというスコットランド人で、長崎在住の商人たちの中でも、ひときわ大きな存在だった。
安政六年(一八五九)、開港後間もない長崎にジャーディン・マセソン商会の駐在員として来日したグラバーは、すぐに独立してグラバー商会を設立、当初は生糸と茶の輸出を行っていたが、ここ数年は武器の輸入に力を入れ、巨万の富を築いていた。
グラバー邸に着くと、使用人たちが左右に列を成して閑叟を迎えてくれた。表口の前で待っていたグラバーは満面に笑みをたたえて閑叟を迎え入れた。もちろん二人は旧知である。
会談は和やかな雰囲気で進んだ。グラバーは閑叟がいかに上客か知っており、終始笑みを絶やさず、佐賀の人材や文物の素晴らしさを語った。それは大隈が訳すのをためらうほどで、褒めるとなったら褒め尽くす西洋商人の徹底ぶりに、大隈は学ぶものがあった。
閑叟とて親交を深めるためだけにグラバーに会いに来たわけではない。そこで商談となり、九ポンドのアームストロング砲二門と六ポンドの同砲一門を買い付けた。
するとグラバーが言った。
「軍艦はどうですか」
閑叟が「今はまだ結構です」と答えると、グラバーは「では、見るだけでも」と粘る。
グラバーによると、ちょうど懇意にしている艦長の軍艦が長崎港に入っており、見学したいなら段取りをつけると言う。閑叟の答えは、もちろん「では、頼みます」だった。
早速、使者が走り、見学の段取りがつけられた。
グラバーの馬車が表口の前に着けられると、閑叟が大隈を手招きした。
——こいつは参った。
そう思いつつも、通詞役の大隈には断ることなどできない。大隈は二人に向き合う形で座り、港まで一緒に行った。
港に着くと、英国人水夫たちが整列して待っていた。グラバーは艦長と抱き合うようにして旧交を温めた後、艦長を閑叟に紹介した。艦長は閑叟に「サー」という尊称を使い、閑叟が見学に来てくれたことは「最上級の栄誉」であるとまで言った。
大型船は沖に停泊しているので、そこまで小舟で行くと縄梯子しかない。だが閑叟は側近が押しとどめるのも聞かず、縄梯子を伝っていった。大隈もそれに続く。
艦上に上がった閑叟は艦長の説明を聞き、次第に質問までするようになった。
「この砲は、どれくらいの射程があるのか」
艦長が答える。
「この船は十六センチクルップ砲を二十基ほど備えています。クルップ砲は後装式の施条砲なので、有効射程距離としては三千五百から四千メートルほどになります」
大隈はそれを日本の尺に換算して伝えたが、すでにメートル法に慣れている閑叟には、その必要がない。
「円弾ではないのだな」
「はい。尖頭弾です。砲の内側に入れられた螺旋状の溝によって回転力が与えられ、長い射程が得られます」
閑叟の質問に艦長が砲弾を見せる。
「これは面白い形をしているな。何という名だ」
——どう訳す。実は大隈は尖頭弾という言葉の意味が分からなかった。
致し方なく大隈は、その形状から思いつきで日本語に訳した。
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