邪宗門(高橋和巳) 後編

高橋和巳の小説『邪宗門』評、後編です。前編では、作者自身や物語が描かれたころの時代背景を、中編ではなぜ国家の近代的な共同幻想と民衆の土着の共同幻想が衝突することになったのか、物語を追いながらその必然性を論じてきました。中編の最後では、宗教団体を描いた物語でありながら「内面には、教義・教理・信仰は内在化されてはいない」ということが示されました。作者高橋和巳はなにを意図していたのでしょうか。

文化大革命への憧憬

邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)
邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)

 なぜ高橋和巳は、主人公のふたりの思想を宗教から切り離したのだろうか。高橋としてはこのような設定にせず、潔と阿礼を狂信家にすることも可能だっただろう。狂信的な信仰を理性的に受け止めて武装蜂起を直線的に結びつけることもできたはずだ。しかしこの物語はそうなってはいない。そもそも、こうした新興宗教の共同幻想の持つ、本質的な国家との齟齬は、戦後の国家幻想の消滅期間より、国家幻想が剥き出しになっていた戦争に至る時期、この物語でいうなら第二部で展開されるのが妥当である。「第二次ほんみち不敬事件」のように、その期間での衝突として描くほうが自然でもあったはずだ。政治家や軍人に信徒を増やすような展開にすれば容易に可能だった。むしろなぜ、この物語では、大衆を率いた武装蜂起が戦後という時代に設定されたのだろうかという疑問がわく。

 おそらく「ひのもと救霊会」として語られている対象は、新興宗教というより、土着の社会主義・共産主義の革命の理念であり、憶測の部類にはなるが、この物語が書かれたころの、日本の社会主義者・共産主義者を少なからずを熱狂させた中国の文化大革命への憧憬からではないだろうか。

 土着の社会主義・共産主義の革命の理念は、戦後、といっても1951年だが、日本共産党による第4回全国協議会(四全協)の反米武装闘争方針となったものだった。この方針によって、日本共産党は武装集団として山村工作隊を形成した。これは中国共産党の抗日戦術を模倣し、山村地区の農民を中心に武装化を図って、農村地帯に「解放区」を形成しようとしたものだった。戦後の共産党の革命理念でもあった。

 山村工作隊的な武装理念の本質がどのようなものか。この小説は「世なおし」の暗喩を隠れ蓑に残酷なまでに暴露して見せている。

 戦争は、彼我の拠っている地域の境界が敵味方の岐れ目である。巨大な破壊力を、より大きく投入したものの方が勝つ。だが世なおしは、同じ国内、同じ地域、同じ職場、同じ家庭に、敵味方が入り乱れるもの。大量殺戮の武器もそこでは役立たない。それ故に、いかに多くの人々を抗争の中に捲き込むかによって、事の成敗は決まる。罪なき人を捲き込むこと、それが、世なおしの必須条件なのだ。


 世なおしの理念が実現するためには、無辜の人を大量に犠牲に巻き込むことが必要条件であるとされる。これこそが、山村工作隊が消滅しても、新左翼として戦後社会主義運動に隠された奥義であった。しかも活用できる武力が不足しているなら、天変地異や大規模事故を活用してもよい。無辜の人々の犠牲を多数巻き込むことが世なおし、イコール革命の前提条件として肯定されてきたのだった。

『邪宗門』に宗教は描かれていなかったのか?

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