声を上げた結果は「肯定・否定」の2択ではない

社会に対して「声をあげよう!」と思ったときに陥りがちな「つまずきポイント」を取り上げます。二つ目のつまずきポイントは、わがままを聞く側になったときに「白か黒か」と結論を急いでしまうこと。つい、「努力目標ってどこまでやねん」「過度な負担のない範囲ってどこまでだよ」と思ってしまいますが、その要件をすぐに決めない方がいい。その理由を考えます。(『みんなの「わがまま」入門』より)


ともかく「わがまま」の線引きを形式的に決めないことが大事です。そのうえで、だれかが自分の権利を主張したときに、その理由はどこにあるのか、解決策としてどういったものがあるのかをその都度議論していくことが、当たり前だけど常に重要なプロセスになるわけですね。

たとえば最初に例にあげた合唱コンクールの練習にしても、「こいつが練習に来ないのは、何か来られない事情があるのかも……」といったバックグラウンドを意識したうえで、練習に来ないという事実をまず受け止めてみましょう。そのうえで、練習に来られないことが何か他の人が当たり前に持っている要素を持っていないからだとみんなが思えるかどうかは、おそらく時と場合によると思います。だからこそ「たんなるサボりだろ」「いや、でもこいつがサボっているのは家の事情があるからで……」「じつは家が遠くて……」というやり取りのなかで、お互いを理解していくプロセスが、より政治的な課題を解決するための社会運動でも重要になっていると言われています。

なんでこのプロセスが重要になるかというと、以前にも言ったとおりで、それぞれ思った以上に異なる出自を持つ人々がいるにもかかわらず、その違いが見えないのが今の社会だからです。それは「わがまま」でも「社会運動」でも変わりません。ともあれ、お互いの事情についてよくわかったうえで、この場においてどのような解決策を出すかを考える必要がある。

ここで重要なのは「練習に来ないこと」そのものでなく、「練習をしたがらない理由」(そして、「練習をしなければいけないと多くの人が考えている理由」)についてみんなで考えることですよね。

これは合唱コンクールといった身近な場だけのことではありません。より社会的な問題について考えてみると、今、子育てがとても話題になっていますよね。こういう話題になると、どうしても「保育園を増やさないと!」とか「子連れ出勤しないと!」という、解決策の優劣を競う議論になりがちです。

根本には「家族だけでは子どもの面倒を見切れない。どうすればいい?」という個人の悩みや、「少子化すると仕事をする人や納税をする人が少なくなってしまう。どうしよう?」という国家の悩みがある。そのように議論を開いていくと、「そもそも少子化って悪いことなの?」とか、「家族がこれまでやってきたことのなかで、どこまでが他の人にできることなんだろう」「肉親や保護者じゃなきゃできないことってなんだろう」と考えることができます。

でも、問題の解決策として「保育園を増やす!」とか「子連れ出勤を推進する!」と目的を定めてしまうと、それが達成できるかできないか、という話になってしまって、結果として解決策の選択肢を狭めてしまうのですね。

大本の悩みに目を向けて議論すれば、多様な解決のありようや、解決策に至らないまでもみんなが直面している困難を明るみに出すことができます。

このことを先ほどの合唱コンクールの例に当てはめると、たんに「練習に行く・行かない論争」だけではない解決の可能性が見えてくる。合唱コンクールなら「ここからここまで家で練習すればいいんじゃない」とか、「遠くから来る人は練習時間をすこし遅らせてもいいんじゃない」とか、そういったものでしょうか。

でも、議論ってとっても難しい。時間も限られるし、自分と他人がまったく違って見えるときに「わがまま」を他人に伝えて、他人と議論を深めていくのはとても大変なことです。

わがままの落とし所?

「わがまま」を言うときのつまずきポイントその2は、自分がわがままを「聞く側」になったときに「AかBか」「白か黒か」と結論を急いでしまいがちになることです。ここではどういう結論、というか「落とし所」を考えることができるかについて、実在の社会運動や議論を事例にして考えてみましょう。

こういうことを言っていいのかわかりませんが、私もすべての社会運動に対してその価値を認められるかといえば、ちょっとそうでもないと思うときも、もちろんあります。

たとえばある学生から、「自分は障害がある。大学のAキャンパス(私の働く大学の校舎は、3つの異なる地域にあるのです。ここでは、そのうち2つを「Aキャンパス」と「Bキャンパス」とします)にある図書館はとても遠いから、本が借りられない。だから、自分の家の近くにあるBキャンパスにも同じ本を置いてほしい」とか、「自分は家計が厳しく、働くのに忙しくて、大学に行くことが難しい。図書を郵送で受取可能なようにしてほしい」とか、そういった要望を耳にすることがあります。

私は、それはさすがに自己中心的なんじゃないか、と一瞬ムッとするわけですが、この要望、とりわけ前者のものは、障害学などで「合理的配慮」といわれる考え方に基づいています。合理的配慮とは、障害者差別解消法で示されているもので、「障害者が壁を感じずに生活できるよう、『過度な負担』のない範囲で求められる配慮」と言われています。公立学校や市役所といった公的な施設では「義務」ですが、私立学校や企業などの民間事業者では「努力目標」とされています。

 ここでみなさんが気になることは、「努力目標ってどこまでやねん」「過度な負担のない範囲ってどこまでだよ」ということでしょう。

ただ、「合理的配慮はこれ!」「ここまでが努力目標!」と定めないことが、「わがまま」を言う側にも「わがまま」を聞く側にも大事になってくる。このケースは議論の結果、合理的配慮が必要と認められない、という結論になったようですが、肝心なのはここからです。

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みんなの「わがまま」入門

富永京子

「権利を主張する」は自己中? 言っても何も変わらない? デモや政治への違和感から、校則や仕事へのモヤモヤまで、意見を言い、行動することへの「抵抗感」を、社会学の研究をもとにひもといていく、中高生に向けた5つの講義。身近な「わがまま...もっと読む

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kohaku_utsurogi |みんなの「わがまま」入門|富永京子|cakes(ケイクス) なぜその人はそう言うに至ったのかを考える事なんだろうなぁ…… https://t.co/ZUth0tZhCl 10ヶ月前 replyretweetfavorite